世界遺産唐招提寺の魅力⑤戒壇とその他の建物(御影堂・開山堂・井戸・東塔の礎石・薬草園)

奈良県
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御影堂

開山御廟の隣(西)には御影堂がある。

江戸時代に建てられた重要文化財で、国宝の鑑真和上坐像が奉安されているが、通常中には入れない。

鑑真和上坐像は鑑真の死を惜しんだ弟子が作ったもので、日本最古の肖像彫刻とされている。

開山堂

鑑真和上坐像は普段は観れないので、代わりにお祈りください、とのことで鑑真和上御身代わり像が開山堂に安置されている。

たしか撮影禁止だったと。

唐招提寺のHPで観れるが、彩色が施されていて、着ている服から当時使われていたであろう模様や色を知ることができる。

鑑真の井戸

その先の西に向かう途中の、境内の北西の角には井戸がある。

唐招提寺は水が豊富らしい。
秋篠川といくつかの池、井戸による水路に囲まれているため、敷地全体が一年中湿っているのだそうだ。
開山御廟の美しい苔もそれが理由と思われる。

井戸の近くには4つの石が置かれている。
説明板がなく後から知ったが、かつての東塔の礎石なのだそうだ。

戒壇

そして境内の西には戒壇がある。

鑑真が授戒を行った戒壇で、現在は鎌倉時代に造られたとされる3段の石壇のみが残る。
その上に昭和53年(1978年)に造られた宝塔が築かれている。
昔は基壇の上にお堂が建ってたらしい。

東大寺に住み5年間戒を授けた鑑真は、晩年唐招提寺に移り、この地で戒律を授けた。
鑑真は戒を受けた僧が学問に励めるように、唐招提寺を造ったと前に述べたが、国家の権力から離れて純粋に戒律を説きたかったから、ともいわれている。

鑑真により東大寺と唐招提寺に正式な授戒制度ができ、南都六宗の寺院から僧や尼になるために戒を受ける者が訪れた。

各宗派がそれぞれの本山で独自の戒壇を作るまで、東大寺と唐招提寺は日本の仏教において、重要な場所だったのだ。

そもそもなぜ鑑真が戒律制度を整えたことが大きなことだったのか。
それは当時の日本の授戒制度が正当なものではなかったからだ。

鑑真が戒律をもたらすまで、日本では出家の際、寺院や朝廷に認められれば、自らが戒律を守ることを誓えば僧や尼になれた。

一方で鑑真がいた唐では、三師七証(さんし‐しちしょう)という、3人の師僧と7人の承認によって正式に授戒が行われる制度が採られていた。

当時、遣唐使船で日本から多くの僧が唐に渡ったが、正式な戒壇での受戒が行われていない日本の僧は、一人前の僧とは見られず、沙弥(しゃみ)という、正式な僧侶(比丘)となる前の見習い僧として扱われた。

この状況を憂いた元興寺の高僧が、日本での正式な受戒を要望し、その要請により天平5年(733年)に普照と栄叡の二人の若き僧が唐に派遣されたのだった。

ついでに元興寺は当時、各分野で仏教界をリードするほどの寺院だった。南都七大寺の一つとして。

日本の僧は正式ではないから、戒を授けてもらうために唐に渡ったとも、いわれている。
そんな状態だったので正式な授戒制度が求められたのだった。

鑑真は14人の僧を伴って来日したので、三師七証による受戒の条件が整い、日本で正規の受戒が始まった。
そういうことで、鑑真が日本に戒律をもたらしたことは、大きなことである。

薬草園

戒壇の近くには薬草園がある。

薬草園は以前からあったが、平成に金堂を修理した際に、止む負えず仏像修理所を建設したため閉鎖し、金堂の修理が終わったので再開に向けて整備しているところだった。
※『古寺を行く4 唐招提寺』より

2024年に公開予定と書かれており、薬草園が公開されればまた一つ、唐招提寺の見どころが増えると思う。

鑑真は薬草やその知識を日本にもたらしたが、当時の中国では薬草は香料で法会に欠かせないものだった。

蓮があるが、この蓮は鑑真が日本に持ち込んだ種子に由来する
蓮とのこと。
蓮は境内の東にもある。

仏教の清らかさの象徴であり、仏教のシンボルである蓮には、さまざまな種類があることが分かる。

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