廬舎那仏像が造られた理由・大きい理由
大仏殿の中に入るとすぐに目に入るのが奈良の大仏で知られる約15mの盧舎那仏像。

なぜこれほど大きな仏像が造られたかというと、華厳宗の教えでは盧舎那仏は広大な宇宙に広がる仏の世界を隅々まで照らす大きな存在で、それを表わしているからという。
また、大仏を造った当時は疫病や飢饉、大地震が起こり社会が非常に不安定だったので、多くの人を救うために大きな仏像を造ったと言われている。

現在の大仏の頭部は江戸時代に造られたもので、体の大部分は鎌倉時代に補修されたものだが、台座や右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖や太腿の部分に一部建立当時の天平時代の部分も残っている。

廬舎那仏は蓮華に座り、蓮華には千枚の蓮弁、蓮の花びら、がありその一枚一枚に十億の世界があり、そのそれぞれに自らの化身である釈迦如来を遣わして光を当てるという、広大な宇宙論を説く華厳宗の教えが表されている。

実際は蓮弁は56枚だが、その大半が奈良時代に造られたものが残っているので、よく見るのがお勧め。
蓮弁に刻まれた華厳宗の世界観

蓮弁には華厳宗の説く広大な世界観が刻まれている。

3つの世界が鏨(たがね)で彫られ、上段に廬舎那仏の化身である釈迦如来と二十二の菩薩が彫られ、中段は横線によって無色界・色界・欲界(よっかい)という、あらゆる生き物が行き来する迷いの段階を表す三つの世界が彫られ、下段には百億世界を象徴する七つの須弥山(しゅみせん)が彫られている。
※須弥山:世界の中心にそびえる山で、妙高山と訳されることもある


聖武天皇は廬舎那仏を東大寺に、蓮弁の釈迦如来を国分寺に、小千世界の釈迦を各地の寺院になぞらえ、仏の功徳と自身の権威を日本の隅々に及ぼそうとしたという。
東大寺が全国の国分寺の上に位置する所以はここにある。

大仏殿の江戸時代の再建と建築上の見どころ


大仏殿は南大門で紹介した大仏様が取り入れられている。

柱には板が巻かれているが、これは太い大きな木を調達することができなかったため、芯の周りに檜の板を巻き、太い釘で打ち付け鉄のタガで締め付けて強化している。


江戸時代の大仏殿の再建は相当苦労が大きかった。
天井の奥に虹梁という、柱と柱の間に架ける横木が必要だったが、これはどうしても太く長い一本物でなくてばならならず、探しに探して、ようやく現在の宮崎県の日向国で見つけることができた。
※上層小屋根裏には二本の大きな松の梁が
入っているがそれは九州の霧島山から運んだ
『宮大工と歩く奈良の古寺』


鴟尾のレプリカや虚空蔵菩薩像・如意輪観音像・四天王像・昔の東大寺の模型・鬼門除け
大仏殿に入って左には、鴟尾のレプリカがある。
名古屋城の金の鯱鉾よりも大きく重さが1.8t近くあるとのこと。

鴟尾は奈良時代から重要な建物の棟に載せられ、魔除けや大棟の反りをより強調する目的があったとされ、その形の元となっているものは鳥とも魚ともいわれ、雷や台風といった建物にとって悪いものが天から降って来ないように置かれたらしい。

大仏殿の中は周りをぐるっと回ることことができるので、ゆっくり観るのがお勧め。

廬舎那仏の隣には人々に知恵を授ける虚空蔵菩薩像が安置されている。
広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩という意味ががあり、奈良時代その信仰が盛んだったらしい。



その近くには南の方角を護る四天王の増長天像の頭部がある。
江戸時代の大仏殿の再建時に造られたものの、未完成に終わり東部のみが残されている。

その後ろには西の方角を護る四天王の広目天像がある。
江戸時代に造られたものだが、奈良時代の特徴である筆と巻物を持っている姿で造られている。

大仏の光背の裏も観ることができる。

こういう機会はあまりないのではないだろうか。

大仏の後ろには奈良時代の東大寺の模型があり、昔の大仏殿が今よりもどれくらい大きかったのか知れる。

七重塔が東西に立っており、それぞれの高さが100m近くあったというのですから驚く。
京都の東寺と興福寺の五重塔が50m台の高さだから
その倍近くだ。
※西塔は934年に雷火で焼失、東塔は1180年に兵火で焼失
1227年に再建されるも1362年に雷火で再び焼失した





こちらは北の方角を護る四天王の多聞天像。

右手に宝塔と呼ばれる仏舎利を持っている。
多聞天は毘沙門天とも呼ばれ、室町時代に七福神の一つとされ、江戸時代に特に勝負事に御利益があると信仰された。

多聞天像の近くには一本だけ四角い穴が開いた柱がある。
鬼門に当たる北東の方角にあり、邪気を逃すために穴を空けた鬼門除けとされている。

昔からこの穴をくぐる慣わしがあり、くぐり抜けると無病息災や願いが叶うと言われてきた。

御本尊の向かって右の仏像の右手前には、東の方角を護る四天王の持国天像がある。

こちらも江戸時代に未完成に終わり頭部のみが残されている。
こうしてみると分担制でパーツを造り、組み立てて造っていることがよく分かる。


廬舎那仏像の向かって右には人々のあらゆる願いを叶える如意輪観音像が安置されている。
こちらも江戸時代に造られた像。

お堂の中には大仏殿の創建や再建を説明したパネルや、二月堂や法華堂など他の建物を紹介したパネルがある、
境内を歩く際の参考になるので、ゆっくりご覧になるのがお勧め。

参拝客の少ない平日の朝方に訪れてゆっくり参拝したい。
昼間はいかんせん修学旅行生がうるさい。

大仏殿の扉も立派で大きな木が使われている。

大仏殿を出た所にあるインパクトのある像は、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)の像、
釈迦の弟子だった賓頭盧(びんずる)の像で、体の痛い所を撫でると良くなると信じられたなで仏の風習がみられる。

感銘を受ける江戸期の再建

非常に見どころが多い東大寺。
参拝する度によくぞ江戸時代に再建してくれたものだと感銘を覚える。
資金難や資材不足に悩まされたことは先述の通りだが、当時は京都の方広寺があり、日本一の大仏と巨大な大仏殿が既にあり、何も東大寺を再建しなくてもいいではないかという声が少なくなかったという。
再建の費用は門前や近隣の住民が負担するので
その気持ちも分からない訳ではない。
だが江戸時代に大変な苦労して大仏殿が再建されたおかげで、結果として今こうして日本一の大仏が現存し、奈良時代から続く歴史を現在に伝えている。
無理をしてでも大仏殿を再建したのは、長年の住民たちの信仰心や、脈々と受け継がれてきたさまざまな想いがあったからだと思える。
それが何なのかははっきりとは分からないが、少なくとも鎮護国家のためという目的と戦乱や災害、疫病、飢饉で亡くなった人たちへの鎮魂のためという目的があり、それが多くの人から求められたことは確かだと思う。
そうしたことを想いながらお堂と御本尊を目にすると、参拝できてよかったと思える。
そしてまたまた参拝しに来たいと、訪れる度に思わされる。
東大寺はそんな場所なのだ。
ついでに、本文と関係がないが、かつての日本の首都にはどこも大仏があったことが個人的に興味深い。
奈良はここ東大寺の盧舎那仏、京都には豊臣秀吉が造った方広寺の大仏があった。
最近知ったが東福寺にも中世に巨大な大仏が造られている。明治時代に焼失したしまったが。
鎌倉には高徳院の大仏が現存し、東京には上野寛永寺にかつて上野大仏があった。
時の権力者が意図して大仏を造ってきたが、そのはじまりがここ東大寺で、そんなことを考えながら参拝するのもいいのかと思う。
(権力者の権威を示すと同時に、万民の安楽や救済を願い造られて、その町を怨霊などから浄化する意図があったとされている)

YouTube
動画でも是非ご覧ください。
コメント