制度(屯田兵制)
明治初期に北海道の移住を勧めた政府だが、応募が思わしくないため、明治5年には募集をやめ、既に定着した移民への援助に切り替えた。
そして明治6年、北方警備と開拓とを兼任させる屯田兵制を開始する。
屯田兵とは、平時は農業を営むかたわら軍事訓練を行い、いざ戦争が始まると、軍隊の組織として戦うことを目的とした土着兵のこと。
元々は、中国で漢から明の時代まで盛んに行われていた制度らしく、この制度が士族の失業対策として使われた。
士族に兵士という誇りを持たせながら、開拓という自活の道を開かせようとした制度だったが、途中から平民からも募集するようになる。
出典:「水土の礎 明治の礎 北海道の開拓」HP
屯田兵は集まらなかった。
募集は半分にも満たなかったらしい。
1県あたり62人の募集に対して、半分すら集まらず、35歳までという年齢制限もごまかしたという。
出典:『星霜Ⅰ北海道史』
屯田兵制は、農具・家具・食料・旅費を支給するもので、宮城・青森・酒田3県と北海道内からの志願者を募り、初期は石狩が中心となり、その後、根室・厚岸(あっけし)・旭川にも置かれた。
明治29(1896)年に、第七師団が設置され、屯田兵が消滅するまでの期間だった。
出典:『街道の日本史 蝦夷地から北海道へ』
第七師団が置かれたのは明治27年とも
明治23年までは世襲制だったという。
ちなみに、北海道に師団が置かれ徴兵制が始まると、徴兵逃れのために北海道に移住する者がいなくなり、兵が集まらなくなった。
明治34年には、北海道の人口は百万人を突破するが兵は集まらず、本州など他の地域から兵を連れてきた。
トラコーマ(目の感染症)の患者にまで兵役を課して兵を集めたが、逃亡兵が後を絶たなかったという。
屯田兵の生活

屯田兵の生活は、住まいは士族の移住者より大分ましだったが、生活は決して楽なものではなかった。
生活規則は厳しく、起床と就業の時間が定められ、軍事訓練と農作業の他に、道路や水路などの開発工事、街路や特定建物の警備、災害救援にあたった。
食料は支給されたが、それでは足りず、自らで作物を育てねばならなかった。
働き頭である夫は日中外に召集されているため、その妻が農作業をした。
士族や農村からの団体移住者と同様に、女性も大変で、家事に育児に畑仕事に開墾にと、あまりの疲労と眠さで馬車から転げ落ちたなんて証言もあった。
屯田兵も兵隊と言えども履物は草鞋だった。
軍靴になったのは日清戦争の動員の際が初めてだったという。
出典:『星霜Ⅲ 北海道史』
1日に9足も草鞋を履きつぶす者もおり、それだけ
内職で草鞋を作らねばならなかったと考えられる。
屯田兵は西南戦争・日清戦争・日露戦争に参戦した。
西南戦争では、戊辰戦争の敵だった薩摩士族を相手に、指揮を高め奮い立ったことは、よく知られている。


農業における屯田兵が果たした役割
屯田兵制は内乱や海外出兵だけでなく、北海道の農業にも大きな影響を与えた。
アメリカ型の、広大かつ整然とした区画で開拓された土地は、その後の大規模な農業経営を可能にし、現在の北海道の食糧供給地としての発展に大きく貢献した。
※出典:「水土の礎 明治の礎 屯田兵」HP
メモ
支給された家屋
官給の家屋・農具・土地(約5000坪〜1万5000坪)が提供され、入植後3年間は食料が支給された。
屯田兵の家、屯田兵屋と言われるが、は囚人によって建てられたものが多い。
士族が建てた家より、遥かによい。

家族構成
詳しいことは分からないが、平均して、一人の屯田兵に3人の親族がいたとされている。
妻と子供、両親など
地名
札幌市北区の「屯田」など、北海道各地に屯田兵が入植した名残が地名として残っている。
Wikipediaの屯田兵より
・国内外の様々な作物を育てる試験農場の役目も兼ねた。
・北海道では当初、米が育たない土地だったが、
兵士の中に根強い米作り志向があり、寒冷地向きの技術と改良品種を生み出した。
YouTube動画
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