はじめに
枕木の数だけ犠牲者が出た。
北海道の開拓はこんな言葉で表されることがある。
これは、囚人やタコ部屋による過酷な労働があり、それにより亡くなった多くの人たちが、北海道の地に眠っていることを表してる。
囚人労働に関する本を開くと、そこには、
厳しい寒さと栄養不足で長時間働かせられ未開の地を切り拓き、
倒れた囚人が鎖が付けられたまま道路の脇に埋められ、
炭鉱では有毒ガスを調べるために竪坑に縄でぶら下げられ、
意識を失い痴呆になり、また硫黄の採掘で失明したと、
そうしたことが書かれている。
明治時代から本格的に行われた北海道の開拓は、士族の移住・屯田兵・農村からの団体移住などにより行われたが、その一方で囚人労働とタコ部屋労働が行われ、その一部が現在の北海道の発展の基礎を築いた。
今回は、北海道開拓の影の歴史とも言える、囚人労働について、当時の時代背景とともに記す。
囚人労働が北海道で行われた時代背景

まず始めに、囚人労働が行われた時代背景を。
明治時代に北海道で囚人労働が行われたのは、北海道の防衛と日本の近代化が急がれたからだった。
江戸時代後期から危惧されていたロシアの南下は、明治時代になるとより現実的なものになり、北海道を守る必要に迫られたが、当時の北海道は、手つかずの原始林が広がり、防衛拠点がなければ物資の輸送手段もなかった。
このインフラ整備を急ぐため、労働力が必要だった。
また、北海道には、豊富な地下資源と木材があり、これは日本の近代化に役立った。
この天然資源を活かすために、鉱山を掘り、港をつくり、鉄道を敷き、輸送網を整備する必要があり、これも労働力が必要だった。
しかし、当時北海道に住もうとする者などなく、明治政府が士族の移住や屯田兵の募集をはじめ国民にあの手この手で北海道への移住を勧めても、思うように人が集まらなかった。
そこで、人手不足を早急に解消するために、囚人が労働に使われたのだった。
明治政府の置かれていた状況

明治時代をもう少し掘り下げて、当時の政府の置かれていた状況を見てみると、明治政府はとにかくお金がなかった。
新時代を迎えた明治政府にとっての喫緊の課題は、
列強からの植民地化を防ぎ近代化を進め、列強に追いつくこと、つまり富国強兵を行うことだった。
それまでの、江戸時代の政治システムを作り直し、憲法の制定、国会開設、軍事防衛、殖産興業、税制、金融政策などの制度作りに邁進した。
それは、当時の先進国が数百年かけて成し遂げた近代化を、数十年でやるといった、列強からすれば無謀に思えるものだった。
列強には植民地があり、植民地から収奪して国力を高めていたが、日本は植民地を持たなかった。
それに、海外貿易では関税自主権がないハンデがあり、イギリスに借金をしながら富国強兵を進めた。
その原動力は、急がねば日本が植民地になるという、危機感だった。
政府は、あらゆる税を国民に課し計画的・長期的にお金を集め、落伍者が大量に生み出される状況をつくりながらも、ただただひたすらに近代化を進めた。
明治時代を、そう捉えることもできる。
こうしたお金がなく、また北海道だけに国のリソースを割けないなかで、北海道の開拓が急がれた。
囚人労働が容認されるのも無理もない、そんな時代でもあった。
囚人労働の概要

近代化を急ぐお金のない明治政府は、囚人を北海道の開拓に使った。
江戸時代は、罪人に労働を課すことはなかったが、西洋諸国やロシアでは囚人を使役しており、政府はそれを取り入れた。
明治14年(1881年)に樺戸集治監が造られ、
翌明治15年に空知集治監が、
18年に釧路集治監が、
23年に釧路集治監の分監として網走囚徒外役所が、
26年に帯広外役所が造られた。

これらを拠点として送られた大勢の囚徒たち、以下囚人と呼ぶが、が道路開削、屯田兵屋建設、農地開拓、石炭・硫黄採掘など、様々な開拓事業に使役された。
囚人による北海道の開拓は、「明治27年(1894年)に廃止されるまで続いた。
政府は、「元々囚人は狂暴で悪人なのだから、尋常でない苦役に充て、それで斃(たお)れても、監獄費の支出が減る訳で、仕方がない」とした。
具体的な割合は分からないが、集治監に送られた者の中には、西南戦争に従軍した者や自由民権運動をした者が含まれていた。
また、囚人の中には、生活苦で犯罪に手を染めざるを得なかった者も、少なからずいたと思われる。
囚人労働は、当時膨大な数に膨れ上がった囚人の管理費を節約するためともされているが、明治16年に5万人だった囚人は、18年には9万近くになり、この勢いで行くと数年後には国民の半分が犯罪人になる、とさえ言われた。
※出典:『鎖塚 自由民権囚人労働の記録』
しかし、その罪状は窃盗が半分以上、詐欺が4分の1、山林盗伐が約1割というのが犯罪の内訳で、
窃盗は他人の芋や果物を取った程度、山林盗伐は枯れ木を拾った、また川魚を1匹捕った程度のものが少なくなかったという。
明治16年(1883年)から20年(1887年)までは、不景気で自殺者が増加した時代であり、犯罪が増えた。
また、借金が払えず、土地の税金を納められず土地を取り上げられ、窃盗をし囚人になる者も少なくなかった。
そうした、追い込まれて犯罪に手を染めた者の中から、若くて体格のよい者が囚人労働を課せられたことも、少なからずあったと思われる。
当時の北海道の労働者の1日の賃金は40銭だったが、囚人は18銭で済み、廉価な労働力で北海道を開拓できた。
※出典『日本の歴史21 近代国家の出発』
※出典『鎖塚 自由民権囚人労働の記録』
※出典:『街道の日本史 蝦夷地から北海道へ』

網走の観光名所で知られる網走監獄では、囚人労働について分かりやすく解説している。
ここでは、囚人労働を監獄開拓と呼んでいるが、パネルには、監獄開拓が屯田兵開拓と移住民開拓の基礎を築いたと書かれている。
※庁舎
未開の地であった北海道の開拓は、監獄開拓・屯田兵開拓・移住民開拓の3段階で進められ、先駆である監獄開拓によって、道なきところに道が開かれ、
家なきところに家が建てられ、原生林が農耕地として拓かれ、屯田兵や移住民の入植を進めるための基礎的条件が整備された、とある。


前の記事で、士族と屯田兵、農村からの団体移住者が北海道で多くの苦難の中、開拓を進めたことを記したが、その開拓の基礎を築いたのが、監獄開拓だったのだ。
特に、国土防衛のための屯田兵開拓は重視され、屯田兵の住まいを囚人が建てるなど、屯田兵の近くで囚人が使役された。
これは、囚人が暴動を起こすことがあれば直ちに屯田兵が鎮圧できるようになっていたのだ。
※出典『日本の歴史21 近代国家の出発』

以下、それぞれの集治監で行われた囚人労働を見ながら、当時の監獄開拓を紹介する。
樺戸集治監

樺戸集治監では主に開墾と土木労働が行われた。
福島事件や群馬事件などの国事犯が多かったという。
※出典:『鎖塚 自由民権囚人労働の記録』
原始林の大木を切り倒し、石狩川の浚渫や流木の処理をし、河川を整備し、農地を開墾した。
囚人が開墾した農地は、明治24年(1891年)に開拓移民に払い下げられた。
開墾と同時に、樺戸と市来知(いちきしり)を結ぶ16kmの峰延(みねのぶ)道路が開かれ、
さらに空知太(そらちぶと)から忠別太(ちゅうべつぶと)に向かう上川道路140kmの開削も着手された。
空知集治監との共同作業となり、200人の囚人を一団として3里(約12km)ごとに突貫工事が進められ、困難を極めた上川道路は、その年に早くも仮道が全線開通した。

この他、屯田兵屋、小学校舎の建築、河川堤防工事、監獄波止場などが造られた。
2000人の囚人が従事したという。
北海道での道路開削は困難なもので、湿地や泥炭の軟弱な地形が広がる場所では、土砂を投げ込んでも効果が出ず、巨木を並べその上に土を盛り、石狩川の砂利を敷き詰めてと、当時の人力の作業では労力のかかるものだった。
※『赤い人』
そして、現代と全く違うのが、大量の蚊や虻、蚋が襲い掛かってくる自然環境だった。
糠蚊(ぬかか)と呼ばれる蚊をはじめ、虻や蚋が大群で囚人を襲い、所かまわず刺した。
糠蚊の大群に襲われると、口や鼻・耳の孔にも入り眼すら刺し、激しい痒みに襲われ、酷いと呼吸困難に陥り、眼球まで腫れて昏睡することがあった。
足に繋がれた鎖が蔦にからまり、倒れながら開墾を進め、無数の荊に傷つき、朱色の獄衣は破れ、蚊の大群に襲われと、そうした使役が囚人に課せられたのだった。
逃げれば銃殺され捕まれば惨殺され、あるいは耳に穴を空けられ、そこに鎖を通されて足に縛られ、
仮に逃げても山では熊に襲われ、川では濁流にのまれ、冬は山に食べ物などない、といった、そうした状況だった。
空知集治監

空知集治監では、幌内炭鉱の採炭と道路開削が行われた。
空知は国事犯と凶悪犯が多かったという。
※『鎖塚 自由民権囚人労働の記録』
明治時代、北海道では、鉱山開発が盛んだったが、中でも最も利益が見込まれたのが石炭で、石炭の中でも幌内のものは良質だった。
※石炭•硫黄•金•銀•鉛•砥石が採掘された。
金は損失があり石炭は利益が高かった。
そのため、幌内炭鉱の採炭は北海道の諸事業の中でも優先され、空知集治監を設置して囚人を使役した。
販路を拡大するために、小樽に港をつくり貿易拠点とし、国内外船が自由に出入りできるようにし、炭鉱で採れた石炭が鉄道で小樽に運ばれ、直ちに船に積み替えられ出荷された。
※出典:『街道の日本史 蝦夷地から北海道へ』
鉱山は始めアイヌに採炭させたが、狩猟民族のアイヌは採掘に不慣れで、崩落事故などが相次ぎ、思うように鉱山開発が進まなかった。
そこで、3,000人を収容できる大集治監が建設され、刑期12年以上の20代、30代の屈強な囚人が送り込まれた。
しかし、怪我や病気で死者が出続け、重労働と衛生状態の悪さで2割が病気になったという。。
幌内炭鉱での採掘作業では、265人の死者を出したと言われている。
ガス爆発、落盤、斬殺のほか呼吸器、消化器系の病気で亡くなり、マラリアが流行るとバタバタと倒れた。
掘った竪坑に可燃ガスがあると懸念されると、綱で巻かれた囚人が宙づりで降ろされ、囚人が頭を垂れ動かなくなるとガスがあるとし、換気孔が掘られた。
大半は意識が回復せず、一命を取りとめても痴呆状態になったという。
囚人を使った採掘は僅か半年で、一般坑夫を使って採炭した前年の量の5倍近くを採掘した。
出典『赤い人』
囚人の悲惨さは、社会から批判されるようになり、明治23年に炭鉱の使役は廃止された。
道路開削では市来知(いちきしり)から幾春別(いくしゅんべつ)間5.8km、
岩見沢(いわみざわ)から夕張間23.3km、
岩見沢から空知太間36,9kmなど空知地方の道路開削も行われた。

空知集治監では941人が亡くなり、これは道内の集治監で最も死亡率が高かったという。
※『鎖塚 自由民権囚人労働の記録』
釧路集治監

釧路集治監では、アトサヌプリ(跡佐登)硫黄山の採掘と道路開削が行われた。
現在の標茶町(しべちゃちょう)に、1700人を収容できる集治監が設置され、軍人や巡査などの軍事犯が多かったという。
※『鎖塚 自由民権囚人労働の記録』
九州の三池集治監から送られて来た囚人もおり、西南戦争に従軍していた者もいた。
三池集治監での待遇も酷かったが、網走の方が酷い、と当時囚人たちの間で恐れられていたようで、網走では、冬になると飛んでいた鳥が凍って落ちてくると噂されていたらしい。
※三池集治監での暴動
明治16年、三池で囚人暴動が起こる。
囚人の放火による火災を防ぐため、抗夫22名、囚徒24名が坑内に閉じ込められ、3年後に白骨化して発見された。
暴動を起こした首謀者らは網走に送られた。
※『鎖塚 自由民権囚人労働の記録』

アトサヌプリでの採掘では、鉱山から噴出する蒸気と亜硫酸ガス、硫黄の粉により大半が眼病を煩い、栄養失調も重なり両目を失明する者が相次いだ。
また、看守も囚人も硫黄によって頭の働きが異常になり、朦朧として殺傷事件も起こり、逃亡者も絶えなかった。
半年で囚人300余名の内、栄養失調による脚気で145人が病気になり、うち42人が死亡、12,3人が失明し採掘が中止された。
その後は道路開削が行われ、標茶から厚岸(あっけし)間37km、硫黄山から網走までの38km、大津街道45kmと道路が造られ、太田村の厚岸屯田兵屋492棟が建設された。

そして、これらの開削を終えて、最大の作業となる中央道路開削に向けて、囚人が移動がした。
網走囚徒外役所

網走囚徒外役所は、網走から北見石狩に延びる約220kmの国道中央道路を開削するために、釧路集治監の分監として明治23年に設置された。
網走村を工事の起点に決め、明治23年(1890年)に釧路から囚人1200人と看守173人が網走村に移動し、囚人自らが獄舎を造った。
※網走駅周辺
当時の網走の人口は、わずか631人ほどで、そこに千人以上の囚人が来て、また硫黄を原料としたマッチ工場ができ、町の様相がすっかり変わった。
『鎖塚 自由民権囚人労働の記録』から
この道路の開削工事は熾烈を極め、明治24年から開始し、新たに送られた300人を含む1500人で、半分が山道の所に道路を開いた。
1年間に10里(約40km)が限界とされていた当時、4倍以上の45里(約176km)の開削が強要された。
網走から北見峠までの162.7kmの道路開削は4月に始められ、工事は8カ月で完成させるとし、13の工区を4班に分けた囚人200人ずつに競争させ、1区画12kmを1ヵ月以内に完成させる驚異的な速度を実現させた。
この過酷な突貫工事では、食料や栄養不足、劣悪な衛生環境が囚人の命を奪い、211人が死亡し、看守にも犠牲者が出た。

この工事が行われた時期は、ロシアがシベリア鉄道を造りロシアの脅威が現実のものになった頃で、
ロシア兵の上陸に備えて屯田兵を配置するため、道北に道路が造られたのだった。
1日送れれば1日ロシアにひけをとる、という危機感から、班ごとに競争させて松明をつけて夜の12時、1時まで作業させたとも、朝は3時に起き夜の7時まで開拓の斧を振るわせたとも、言われている。
3ヶ月で100km進んだ、なんてことも言われている。
伐採が困難で、切っても倒れない木があれば、囚人を上らせてその重さで倒し、木の下敷きになる者もいた。
死亡者が急増し、逃亡者は斬殺され、病気になれば道ばたに捨てられ、風雨にさらされ、夏は来る日も来る日も雨が降り、悪病が流行し、2、3ヶ月の間に100人が病気で死んだ。
死亡した囚人は、鎖をつけられたまま土をかぶせられ、土まんじゅうの塚ができ、それは鎖塚と呼ばれた。
出典:『常紋トンネル -北辺に斃れたタコ労働者の碑-』
帯広外役所

帯広外役所は、広大で肥沃な十勝の大地を開拓するために、釧路の分監として設置された。
十勝に入植したのは、明治16年(1883年)に依田勉三率いる晩成社が初めてだったが、この地の開墾の厳しさは、10年でわずか30haしか開墾できなかったことからも伺える。
晩成社により山羊・豚の飼育とハム製造、リンゴ・ビート栽培など意欲的な農法が試みられたが、道路がないため生産物の流通ができず、また蝗害(こうがい)のため成功することができなかった。
※蝗害(こうがい):バッタ類の大量発生によって起こる災害
それで、大津街道および音更(おとふけ)山道の開削が急務とされ、明治25年(1892年)に釧路分監が道路開削に着手し、翌明治26年に帯広外役所が設置され、1200人の囚人が十勝地方に開拓の鍬を下ろした。

その前に、網走・空知の囚人600人を動員して下帯広村3500haの開墾を行っており、帯広外役所ができると、下帯広から新得町までの道路開削を行い、更に国道273号線となる帯広から現在の糠平町までの音更道路も、囚人の手で開削された。
それまでは、十勝川を丸太舟で行き来して物資を運んでいたが、この幹線道路ができたことで、開拓の遅れをとっていた十勝地方も、発展することができた。
※『街道の日本史 蝦夷地から北海道へ』
※『星霜Ⅲ 海道史』
全体像
このように、北海道では明治14年から囚人による過酷な鉱山採掘や道路開削が行われ、それにより北海道のインフラ整備は急速に進展した。
道路は、札幌ー空知ー上川ー釧路ー根室を結ぶ道央と道東を結ぶ大動脈と、樺戸ー増毛間、釧路ー網走間の3つの道路を整備することで、北海道全体の交通網が一挙に整備された。

過酷な労働で囚人たちはバタバタと倒れたが、それは脚気が原因だった。
激務にかかわらず米ばかり食べていたためで、1日8合の米を食べるも、栄養が偏っていた。
看守も4人中3人は脚気、しかも31歳~36歳の若さで、といった話もある。
これは、雨続きで食料の調達ができなかったのが原因だった。
網走では、道路の走る所は火山灰地帯で水に弱く、当時は馬車で物資を運搬していたので、雨が降ると泥で足をすくわれ到着が遅れ、生鮮品は腐り、食べる物がなくなったのだった。
飲み水の調達にも苦労し、井戸を掘っても水が出てこないので、水質の悪い川の水を飲み、消化器に支障が出て病気になったという。
※出典:『赤い人』
囚人たちは、寒さと栄養不足で血行障害を起こし、呼吸器系統がやられ、また凍傷になり倒れた。
獄舎では火気厳禁で獄衣をつけただけの、寝る時は毛布一枚被るだけのもので、凍傷で壊疽した手足、指、耳を切断するものが多数いたという。
未開の地に医者が来ても、巡回診察で忙しいため囚人などは看ず、ある場所では医者が2名いて、足りないので4名に増員したが、激務からか良心的な治療ができないからか、欠員し、その後、医者全員がやめたという。
囚人により開かれた道路

看守の苦労

囚人を酷使した監獄開拓は、看守もまたその犠牲者だった。
看守は、作業の手を休める囚人に棍棒を振るうことが義務づけられ、囚人から恨まれる自身の身を守るために、威嚇し続けねばならなかった。
尋常でないスピードで行われた道路開削では、サーベルを手に走り回り、囚人に鞭を打ち、囚人が少しでも反抗的な態度や表情をすれば、何度も顔を殴った。

また、先述の通り、食糧が調達できず自らも脚気になるような栄養不足下にあり、寒さに晒される厳しい労働環境だったが、にもかかわず給料は辛うじて生活できる程度の額で、しかも減棒ありといった、待遇の悪いものだった。

囚人から視線を外したり、呼子笛を忘れたり、あくびを噛み殺したり、とそんな理由で月の給料を半分減らされたり、一カ月の減棒を言い渡されたりし、
二日酔いで体調優れず出勤した看守が、一カ月の減棒の上に非番の日の休息が半年間なくなったこともあった。
看守たちの中には、うんざりして密に家族とともに抜け出して、姿をくらます者もおり、ある年には307人が免職または辞職したという。
※『赤い人』
タコ部屋労働へ
こうした囚人労働は、明治27年(1894年)以降、批判が集まり徐々になくなっていった。
一般的には、囚人の人権が問題視されたのが理由とされているが、囚人よりも安価な労働力が確保できるようになり、囚人労働が不要になったとも、考えることができる。
それが、本州から北海道に入ってきた土工部屋のタコ部屋である。
タコ部屋は戦後まで政府から黙認され、一種の官から民への労働力の払い下げが行われた、とも捉えることができる。
YouTube動画
動画でも紹介しています、よろしければご覧ください。


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