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北海道開拓の歴史⑤タコ部屋労働Ⅰ

北海道
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はじめに

明治時代から本格的に始められた北海道の開拓は、士族の移住・屯田兵・農村からの団体移住により行われたが、その一方で、囚人労働やタコ部屋労働の過酷な使役も行われた。

タコ部屋労働とは、働き盛りの土工夫が人里離れた僻地で暴力の支配の下、強制的に長時間低賃金で肉体労働を課せられるもので、北海道ではこのタコ部屋労働により、橋やトンネル、道路、鉄道などが造られ、また河川が整備された。
これにより、北海道のインフラは整備され、現在の北海道の発展の一部はタコ部屋労働の恩恵を受けていると言える。

タコ部屋労働は、戦後まで続いたが、北海道だけでなく日本の各地で行われ、また樺太や朝鮮、満州でも行われた。

今回は、北海道で行われたタコ部屋労働について、当時の時代背景に触れながら、記したいと思う。
お断りとして、この記事の内容は、あくまで参考にしていただければ、思う。

自分が読んだ本やネットの情報は、限られた狭い範囲のもので、偏っている。
北海道や日本の近代史の一部分に過ぎず、当時の全てだという訳ではないので、その点ご理解いただきたいと思う。

タコ部屋労働の名称は以下、タコ労働とする。
画像はAIで生成したもので、イメージです。

タコ部屋労働の概略

タコ労働を簡単に説明すると、各地から集めた土工夫を半年などの短期間、人里から隔離して、暴力の支配の下、強制的に長時間低賃金で働かせる肉体労働である。
自らの意思で道内や本州から出稼ぎで来る者もいたが(後述する)、「高賃金が貰える美味しい仕事がある」とか、「楽して稼げるいい仕事がある」といった話に騙されて、連れて来られた者が大半だった。

宿泊所は、逃亡を防止するために、世間から隔離された、深い山あいや谷間に面した崖っぷちにあり、そこで監禁され重労働を強いられ、逃げれば捕まり見せしめに酷い扱いを受けた。
過酷な労働で病気になり、倒れれば暇を出され、また作業中に動けなくなれば、見せしめにその場で埋められたり、人柱にされることもあった。

この過酷な労働がタコ労働と言われる所以は諸説あり、
地元で採用された土工夫を地雇(じこ)というのに対し、道外から雇い入れた者を他雇(たこ)といったことから、
また、糸の切れた凧のように監視の目が離れると逃げることから、
タコ壺のような狭い部屋に押し込められることから、
一旦岩に吸い付くと死ぬまで離れない蛸のように、タコ部屋に入った土工夫は必死で働く、または死ぬまで働くことから、
飢えると自分の足を食べる蛸のように前借を負った土工夫が自らの肉体を切り売りするから、
裸同然で働かされてタコのように全身が赤くなることから、
と言われている。
※出典:『北海道浪漫鉄道』
 Wikipediaタコ部屋労働

タコ労働は戦後にアメリカの占領軍からタコ部屋解散令が出されるまで行われました。

タコ労働が始まった明治という時代

明治時代以降、タコ労働は日本の各地で行われたが、特に北海道が多かった。
これは、北海道が未開の地で、その開拓が急がれたからだった。

詳しくは『北海道開拓の歴史①』で記したが、ロシアの南下の脅威に備え、また北海道の豊富な天然資源を近代化に用いるために、国を挙げて北海道の開拓が急がれた。

しかし、当時の北海道は、原始林の広がる土地で、北海道に住もうとする者などなく、開拓する人手が圧倒的に足りなかった。

そこで政府は、一般人の半分の費用で済む囚人を使って道路や港、鉱山開発などをしたが、財政的に余裕がなくなり、大資本に協力を求め、そのうち大資本が北海道の開拓を担うようになった。

調べた限りでの、北海道でタコ労働が行われた初見は、明治23年(1890)に北海道炭礦鉄道の室蘭線の工事の時だった。
囚人労働と時期が重なっており、明治27年には囚人労働が廃止され、その後(ご)タコ労働が道内各地で見られるようになる。

囚人労働は、囚人の人権が問題視され廃止されたとされているが、タコ労働がさらに安価な労働として取って替わられたともいえる。
官から民への労働力の払い下げが行われ、政府はタコ労働を容認し、元請業者に土木事業を斡旋し、
元請は下請に土木工事を卸し、中抜きし儲け、その一部を政治献金に使い、下請はタコを集め低賃金で酷使した。
タコ部屋自体は請け負う工事の予算が低いため、タコを低賃金で使っても儲けなかったという。

時代がくだるにつれて、鉄鋼や製紙業の大資本が北海道に入り、タコを使って工場が造られ、また工場で造った製品を運ぶ港や鉄道などが造れたこともあった。
※『常紋トンネル -北辺に斃れたタコ労働者の碑-』によると、王子製紙や富士製紙、日本製鋼などの大企業がそうだったという。

明治20年代以降になると、日本の人口が増え食糧不足になり、北海道に出稼ぎに来る者が増え、また水害や日露戦争後の不景気などをきっかけに北海道に住む者が増え、北海道の開拓が進んだ。
しかし、それでも広大な手つかずの自然が残る北海道は、土木工事が幾らでもあり、労働者が慢性的に不足し、後述するように本州から騙して土工夫を連れて来て使役した。
こうして北海道の各地でタコ労働が行われた。

北海道で行われてた土木工事すべてが、タコ労働だった訳ではない。
賃金のいい募集も普通の募集もあった。

それらは地元住民により、真っ先に埋められ、大資本が低予算で人件費を組んだ、低賃金・長時間の誰もやりたがらない案件が、騙されて連れて来られたタコに振られた。

タコ部屋労働の実態

土工夫を暴力で支配し、言うことを聞かせたタコ労働には、厳しい縦の階級があった。
一番偉いのが親方の管理人で、その下に仕事の段取りや配置などを決める世話役と、その補佐役の帳場などがおり、その下に棒頭(ぼうがしら)と呼ばれる現場監督が数人いて、これらが上飯台(うわはんだい)と呼ばれる幹部だった。

その下に中飯台といった周辺の農民や、漁師らで閑散期に自主的に稼ぎに来た者や熟練工があり、そして、他地方から募集したタコの下飯台(しもはんだい)に分かれていた。
身分制度は厳格で、タコは管理人と直接口を利くことも許されなかった。
※出典:『星霜4 北海道史』『北海道浪漫鉄道』
※タコ部屋のもう少し詳しい構造は、ページ最後のメモに

タコ部屋は屋根のない丸太小屋で、夜は逃げれないように外から鍵が閉められ、3、40人から多くて7、80人が収容され、行動は全て号令一つで取り仕切られた。
暗いうちから起床の号令がかかり、10分で食事をし出勤し、現場では盛土、切土、トロッコ押し、もっこ担ぎなどをした。
もっこは2人で180キロの重さがあり、肩はもっこ棒で腫れ、皮がむけてただれた。
逃亡しても見つけやすいように裸に赤い腰巻を付けられた。
※盛土(もりど):傾斜のある土地を平らかにするために、土を盛って地盤面を高くすること
切土(きりど):傾斜のある土地を平らかにするために、地面を削りとって地盤面を低くすること

見張りが銃を持ち逃げないように目を光らせ、
現場監督が半狂乱に作業場内を走り回って怒鳴り、
動きが遅いと棍棒で殴り蹴とばし、また棒の先の棘で刺し、
少しでも命令に不服そうな顔をすれば、棍棒や革の鞭で、青竹でスコップで、顔の形が変わるほど容赦なく叩いた。
出典:『常紋トンネル -北辺に斃れたタコ労働者の碑-』

作業中は私語厳禁でタコは黙々と働き、9時や2時に食事の号令がかかると、作業場に立ったまま、塩を振りかけただけの握り飯が与えられ、1日14時間から16時間働き、作業が終わると整列して現場から土工部屋に戻り、立ったまま粗末な夕飯を食べた。

酒の好きな者は、茶碗一杯だけ冷酒が飲めたが、当然賃金から引かれ、帳場で販売しているタバコや日用品同様、値段は一般の三倍もした。

入浴は10人ずつ風呂に押し込められ5分で出され、2人一組で布団に入り、脱いだ衣類をまとめて枕にした、という。
※出典:『北海道浪漫鉄道』

食事は1日4回から5回、白米が中心で1日9合の米を食べたが、バランスが悪く急いで食べるので脚気や胃腸病の原因になった。

タコ労働は、基本的に雪の降らない時期の雇用だったが、中には冬の作業もあった。
灌漑溝や排水溝、河底ざらいは、冬は水が少なく、また水の利用も減るので、冬に作業が行われた。

冬でもふんどし一枚で働かさせられ、—20℃の中でゴム靴もなく川ざらいをさせられ、大半が凍傷にかかったという。
凍傷で足を切り落とす者もあり、使い物にならなくなったタコは、わずかなお金や食べものを渡されて部屋から追い出された。
※川から上がって火を焚いても、幹部でなければ火にあたれなかった。
使い物にならなくなったタコは50銭渡されて部屋から追い出された。
※出典:『常紋トンネル -北辺に斃れたタコ労働者の碑-』

これらの作業は、米作りのためでもあった。
元々北海道は米が育たない土地だったが、明治後半から土壌や品種の改良により、米が作れるようになり、牛馬の飼料としての稲藁の需要もあったため、米作りが盛んになった。
北海道の米作りの基盤は、大正から昭和初期につくらたが、それはタコ労働によるものでもあったのだ。
※出典:『常紋トンネル -北辺に斃れたタコ労働者の碑-』
※出典:『星霜5 北海道史』

このような過酷な労働を、1日平均15時間もしても、お金は残らなかった。
1日2円や2円50銭と募集した賃金は、実際1日1円で、そのうち食事代として50銭抜かれ、その他、作業に必要な草鞋や雨の日用の足袋、日用品の手ぬぐいやちり紙、嗜好品の菓子や酒たばこなども、外に出られないタコは世間よりも高い値段で買わされた。
出典:『常紋トンネル -北辺に斃れたタコ労働者の碑-』

タコ労働で造られたもので、良く知られているものに、石北本線の常紋(じょうもんん)トンネルがある。
明治45年(1912年)に着工された難工事で、標高約347m、全長507mのトンネルが3年かけて掘られ、大正3年(1914年)に開通した。

copyright.2023 Google

工事期間中に、100人を超える死者を出した凄惨なタコ労働が行われたことで有名で、地元では、かねてからタコ労働関連の怪談が伝わっていた。

監督の指示に従わなかったタコが、スコップなどで撲殺され、見せしめのためにトンネル内に人柱として立てられたという話が、言い伝えられていた。、
戦後になって、昭和45年(1970年)に、トンネル坑付近で犠牲者と推定される人骨が50体以上発見され、同年にトンネル内の待避所の拡張工事をした際に、頭蓋骨を損傷した労働者の遺骨が壁の中から発見され、人柱の伝説が事実だったことが明らかとなった。

タコ労働によってつくられたトンネルが、実際に今もなお使われている。

逃亡者への処罰

牛馬以上に酷使されたタコたちは逃亡を図った。
夜は小屋が外から施錠されているので、日中の作業中に、監視の隙を狙って逃げた。

見張りは馬や自転車で追いかけ、また、どこのタコ部屋にも熊と間違えるほどの大きな犬がおり、土佐犬やシェパードで追跡した。

逃げるのはタコ部屋に入ってから1週間が勝負だった。
過労と栄養失調で、日ごとに体力が弱くなっていく前に逃亡したのだ。
しかし、逃げても土地勘がないので直ぐに捕まり、また山に逃げれば熊に襲われ、遭難し、川に逃げれば濁流にのまれ、生存は難しかった。

そして捕まれば悲惨で、見せしめにリンチにされた。
他のタコに殴らせたり、土に埋めて頭だけ出した状態にして、他のタコに踏ませたり蹴らせ、松葉で燻したり火あぶりにし、裸にして酒を吹きかけて蚊や虻に食わせたりと、逃亡者は酷い仕打ち受けました。
※逃亡者の上に扉を乗せ、その上に5、6人のタコを上がらせて、飛んだり跳ねさせ、内臓が破裂して糞が飛び出すのを見せた、という話もある。
(『常紋トンネル -北辺に斃れたタコ労働者の碑-』)

監獄の方がまだマシだと、監獄に行くために同僚を殺やめる者も現れ、「監獄志願」と言われた。
タコ部屋でやるとリンチに遭うので、巡査が来た時に眼の前でやり、その際、できる限り派手にやり事を大きくし、連行されずにはいられない状況をつくったという。
※出典:『常紋トンネル -北辺に斃れたタコ労働者の碑-』

猛者、渡り土工

タコは、大半が騙されて連れて来られた者だったが、中には隠れ蓑とし志願して来る犯罪者や、渡り土工と呼ばれる現場から現場を渡るプロもいた。

渡り土工の中には、タコ部屋から逃げて斡旋屋から懸賞金をもらう者もいた。
渡りと斡旋屋はグルで、斡旋屋は、渡りが逃げて人が足りなくなったタコ部屋に、別のタコを紹介してお金を貰い、タコ部屋から逃げてきた渡りに懸賞をあげた。
※月3回逃げてきたら金時計を、2回逃げてきたら銀時計をやるなんてことがあったらしい

渡り土工が逃げる時は、一生懸命に働いて信用させて、監視の目がなくなった時にぱっといなくなった。
普通、土地勘のないタコは鉄道や道路、川に沿って逃げるので、そこを先回りされて簡単に捕まるが、渡りは馬が追えない藪の中に入って逃げ、高い丘に登って追手を監視し、追手が諦めて帰るまで待ってから逃げた。

また更に強者になると、現場監督に向かって、「これから逃げるから追って来れるなら追って来い」と言い、他のタコには「現場監督に俺を追いかけさせるから、追いかけたら逃げろ」と言って逃げた。

現場監督は、多くのタコが逃げるのを避けるため、複数で追いかけることができず、また下手に1人2人で負うと帰り打ちに遭いかねないので断念した。
※出典:『常紋トンネル -北辺に斃れたタコ労働者の碑-』

タコ部屋からうまく逃げたタコは、周辺の民家に食べものを求めたり盗んだりし、住民から恐れられた。

渡り土工の中には、タコを生業とする者もいた。
タコ部屋に入ってから体の丈夫な1週間のうちに、一生懸命働いてノルマを終わらせて中飯台に昇進して、楽な仕事をあてがってもらい雇用期間の満期まで働いた。

タコ労働には「焼き直し」といって、雇用期間が切れるタコを1ヶ月労働を免除して、遊郭や料亭で2、3日遊ばせて、再び契約させるケースがあり、
これは通常タコを再雇用させるためのものだったが、労働を生業としているタコは、自ら遊郭や料亭に出向いて契約延長した。
人によってはタコ労働は生きられる場所だった。
※出典:『常紋トンネル -北辺に斃れたタコ労働者の碑-』

勧誘の手口

とは言え、こうした猛者はごく一部で、タコの大半は、騙されて連れて来られた者だった。
勧誘の手口は、個人でポン引きをして斡旋業者に引き渡すものと、斡旋業者が組織的に騙して監禁して現地に運ぶものがあった。

ポン引きは、繁華街で言葉巧みに騙し、斡旋業者の会社に連れていき紹介料を貰った。
※昭和初期で15円もらえたらしい

都市ならどこにも募集屋があり、公園でぶらついている者、遊園地や縁日に来る者、吉原などの風俗で遊ぶ者、安宿に泊まっている者、職業紹介所に来た者など、目ぼしい者に声を掛け、「楽して稼げるいい仕事がある」と言い、斡旋業者に連れて行った。
※募集屋は、青森、仙台、秋田、宇都宮、前橋、東京、横浜、静岡、浜松、名古屋、大阪、神戸、下関、門司、若松、八幡、福岡の全国に
※東京では、浅草公園をはじめ上野、日比谷、芝の各公演、吉原土手、亀戸遊園地、蛎殻町(かきがら)、浅草涙橋、本所業平橋に

タコには学生や大学を卒業したインテリもいて、彼らは、「北海道は広くて牧場が沢山あって、景色のいいところで牛や馬を見張って寝転んでいれば1日2円50銭もらえる仕事がある」、「働くのは1日10時間でこんないい仕事はない」と言われて騙された人だった。

話を聞きに行くと部屋に案内され、梯子で2階に上ると、梯子を外され、人数が揃うと、その間の食費や渡航代を借金したという借用書に判を押させされ、北海道に送られた。

内地ではポン引きが、道内では「蛸釣り」が多かった。
「蛸釣り」とは目ぼしい男を「タコ店」へ上げて、一晩か二晩か酒と女で潰すものだ。
駅前や舟着場、公園や盛り場でぶらぶらしている者に声を掛け、「ぜひ私の宿に泊って欲しい」と懇願し連れ込み、身の上話を親身に聞いて同情してみせ、「宿泊費が足りなければ立て替えるから」と安心させ、映画などに誘い、最後に酒や女でつぶしてから、高額の遊興代を請求し、あるいは酔いつぶれた時に拇印を押させ、売り飛ばすものだった。

「警察に突き出す」と脅してから、「働き口がないわけではない」と妥協案を出して、了承させる手口だった。
※出典:『常紋トンネル -北辺に斃れたタコ労働者の碑-』

北海道に来た出稼ぎを騙すこともあり、ある人は当時盛んだったニシン漁の手伝いをして、雇用期間が終わり故郷に帰る途中、安い宿があると言う客引きの言葉を信じ泊まったら、高価な宿代を請求され借金を負い、身を売られた。
※出典:『星霜3 北海道史』

差別されていたタコ

タコは当時周辺の住民からは差別されていた。
住民からタコは馬鹿で価値のない人間の屑と見られ、親や教師は子供に
「怠けているとタコみたいになるぞ」
「親不孝するとタコになるぞ」
「親の言いうことを聞かないとタコになるぞ」
と教え、また蛸は前科者だから近寄るなと言った。

そのため、タコを経験した者やタコを匿った者は、それを声に出せず、タコ労働の実情は世間にはそれほど知られなかった。

タコに流れた者たち

タコの大半は騙された者だったと言われているが、
中には生活苦のため流れざるを得なかった者も、一定数いたと思われる。

北海道への移住者で一番多かったのは単身者で、
水害や震災、不景気により生計を立てられなくなった男が、北海道に流れるケースが多く、多くが農業に従事し、他に漁業や商工業、鉱山や土木工事に従事した。
そこで上手く生きられなかった人が、タコに流れたことも考えられる。

※借金を負った者もタコになったと考えられる
※故郷から北海道に流れた単身者は「北海道落ち」と言われた

また、集団移住して農地開拓が上手くいかず諦めた家族や、監獄に嫌気がさして夜逃げした看守の家族で、その後一家離散してタコになる者もいたと考えられる。
※看守の苦労は『北海道開拓の歴史④』に

そうした、さまざまな人たちが、タコ労働をし、北海道のインフラが整備され、農地が開拓された。
今日の北海道の繁栄の一部は、そうした犠牲の上に立っていることを、忘れてはならない、と個人的に思う。

YouTube動画

動画でも紹介しています、よろしければご覧ください。

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