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北海道開拓の歴史③農村からの団体移住

北海道
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北海道移住が加速した時代背景

明治初期、見向きもされなかった北海道の地は、明治時代中期になると、人気の移住先となる。
その要因は、人口増加自然災害不況だった。

明治20年代に入ると、日本の人口が増加し、食糧が不足し、各地方の農村から東京や大阪などの大都市への出稼ぎが増える。
しかし、都市では人が溢れ、北海道やハワイ、カルフォルニアなど、新天地へ移らざるを得ない人が増えた。

海外へ行くよりも、情報の多い北海道の方がいいと考える者が当然多く、北海道への移住者が増えた。
明治25年から大正10年までの30年間は、一種の北海道移住ブームだった。
※出典:山川出版社『県史北海道の歴史』
※移住先はページ最後のメモに記載

明治30年の内地の人口は4240万。
40年には4741万と、10年間で500万人が増加する。
産業、交通網の発達に伴い、人口が都市に集中し、食料生産が伸び悩み、毎年輸入超過になる。
その中身の10~20%は食料で、食糧不足は国家財政を圧迫した。
そうした人口過剰のはけ口が、北海道や海外だった。

日露戦争の勝利も大きい。
日露戦争後に、南樺太が日本の領土になると、樺太の開拓が急がれ、樺太との連絡口となる北海道の開拓が一層早められ、移住者が増えた。

また、明治38年に、日露戦争後の不況東北の大凶荒が重なると、住む場所を求めて北海道へ移住する者が増えた。
特に東北からが多かったという。
※出典:『星霜Ⅳ 北海道史』
※日露戦争後の不況:戦争特需が終わることによる、不景気と物価高騰

移住者の47%が農業に従事し、他に、漁業が9.6%、商業が6.6%に携わった。
移住者の6割は移住の目的が確かだったが、他4割は、とりあえず出稼ぎに来るといったものだった。
※出典:山川出版社『県史北海道の歴史』

仕事を失い、借金を負った者は、生きる場所を求めて北海道に流れ、それは「北海道落ち」と言われた。

北海道移住を進めた不況は、日露戦争よりも第一次世界大戦の方が、程度が大きかったとされている。
第一次世界大戦後の不況の方が、規模が大きく、全国的なものだった。
詳しくは、ページ最後のメモ欄に記載。

優遇された団体移住

団体での移住は、貸借地などが優遇された。
初めは、条件の恵まれた道央の石狩を中心に入植し、その後は道南の渡島(おしま)や後志(しりべし)に移住し、これらの開拓地が飽和状態になると、道東の十勝や釧路、道北の天塩(てしお)や宗谷に入植した。

移民の中には、よりよい条件を求め移住先を変えたものの、結果的には不便な奥地に向かうケースもあった。

このように北海道への移住が進み、明治2年(1869)、わずか5万8000人だった北海道の人口は、明治19年に約30万人なり、23年には42万7000人に、38年には119万人と急増する。
※出典:『県史 北海道の歴史』山川出版社

移住の実態

団体移住

農村からの団体移住で知られているものに、奈良県の十津川村からの移住がある。
明治22年(1889年)、十津川の水害により、村の3千人が生活の基盤を失うという大水害が起こった。

生活の再建を検討している時に、カルフォルニアやハワイに移住した者の中から、相当のお金を持って意気揚々と帰国した者が現れ、アメリカへの移住計画が出た。
が、十津川村は壬申の乱以来勤王一筋の歴史を持つことから、移住するなら日本にしよう、ということになり、全村の4分の1の600戸、2489人にのぼる前代未聞の集団移住が行われた。

その移住先が、現在の樺戸郡新十津川町である。
当時でも例外の手厚い保護を受け、苦難はありつつも、他の移住者と比べて割と順調に開拓が進んだという。
※出典:『星霜Ⅳ 北海道史』

原始林の伐採

北海道での開拓は、移住民は5町歩を開墾して、自作農として独立するのが一つの目安だった。
それには普通3~5年かかったが、その間の苦労は想像を絶するものだった。
※1町歩は約1ha(10,000㎡)
※出典:「水土の礎 明治の礎 開拓の風景」HP

実際は、初年度で1町歩も開墾できれば、生活ができたが、現実的にそれは難しかった。

開墾は原始林との闘いだった。
巨木の原始林と、鉄の網のように密生するクマザサを取り除くことから始まり、マサカリやノコギリ、鍬で木を掘り起こし、石をどけ、クマザサなどの地面に張り付いた植物を切った。

熊や狼を恐れながら開墾し、時には虻や蚊、蚋の大群に襲われた。
糠蚊と呼ばれる蚊は口や鼻、耳の中、目の中すら刺し、刺されると酷い痒みで腫れ、酷いと昏睡状態なった。

冬が来る前に畑の土を起こして種を蒔かねばならないから、家族総出で作業にあたるが、樹齢の古い木はダイナマイトで砕かねばならず、支給された鍬は直ぐに歯がボロボロになり、うまくいかなかった。

伐った木で薪や炭を作り売り、出稼ぎに行き、副収入を得て生活を繋ぎ、なんとか開墾を続けた。

洪水

しかし、3~5年かけて5町歩の開墾に成功するまでに、洪水や冷害に見まわれることもあり、諦めて土地を捨てて流亡する人も少なくなかった。
※出典:「水土の礎 明治の礎 開拓の風景」HP

治水のためのお金などないから、移住先では、度々洪水が起きた。
ほぼ2年に1度は小さな洪水が起きたという。

明治31年(1898)9月には、大洪水が起きている。
石狩川・夕張川・空知川など、道内のほとんどの河川が、ほぼ時を同じくして氾濫。
全道で248人が死亡。家屋は浸水、倒壊、流失し、田畑が大きな被害を受けた。
田のほとんどが、畑は少なくとも半分が、一夜にして泥ねいの底に沈んでしまった。
その年の実りをすべてだめにしてしまった。

移住先の治水対策はお粗末で、その後の被災者の救援策もお粗末だった。
そうした状況で、移住者たちは、開拓・開墾を進めねばならなかった。

特殊土壌

北海道は作物の生育に適していない土地が多かった。
北海道の移住を勧める文句には「北海道は作物が育ちやすい」と謳われていたが、実際は違った。

苦労して原始林を切り拓いても、そこは栄養がほとんどない土だった
さらに広大な低地には、踏み込むと沈む泥炭地、栄養を保持できない火山灰土、冷たく締まった重粘土など、本州の農民が経験したことのない扱いづらい特殊土壌が広がっていた。
※「水土の礎 明治の礎 開拓の風景」HPより

複数の問題と向き合う生活

そこへ厳しい気候が追い打ちをかけた。
春は遅く、秋は早く、霜の季節が長いため作物は冷害で枯れる。
夏は気温が上がらず日照が足りず、実りが望めない。
そして冬はまさしく極寒

雪どけや豪雨による洪水が畑を飲み込み、逆に雨が降らない年は日照りで作物が枯れる。
さらにはバッタの蝗害によって、長い苦労が一夜で失われることもあった。

こうした、どれか一つでも過酷な試練を、開拓民たちは同時に、そして何年も続けて乗り越えなければならなかった。

卵を得るために飼ったニワトリは、寒さのため卵を産まず、肉を得ようと飼った豚は、食糧不足のため太らず、塩・味噌・正油が手に入らない時は、海水を唯一の調味料とした、なんて話もある。

これらは明治中期の話に限らず、昭和20年代の記録にもあり、未開の地に移住した人たちは縄文時代さながらの暮らしを強いられるといった、大変厳しいものだった。
※昭和20年代に網走へ移民した女性たちの記録 斜里女性史をつくる会発行『語り継ぐ女の歴史』より
※「水土の礎 明治の礎 開拓の風景」HPより
 
まさに北海道は「試される大地」であり、現在の私たちからすると想像できない苦労が、北海道を開拓した移住者にあった。

多くの作物を日本に供給する食糧基地に成長した現在の北海道からは、想像もできない、こうした苦労の歴史が、北海道にはあったのだ。

メモ

海外移住の移住先
ハワイ・カルフォルニアの他に、明治20年代から米国本土、カナダ、オーストラリア、ニューカレドニア、フィジー、西インド諸島へ行く者がいた。
明治30年代からは、メキシコ、ペルー、フィリピンへと移住した。
それぞれ移民会社の手により日本移民が送り込まれた。
(「ブラジル移民の100年」HP)

海外移住の詳細
北海道移住ブームだった明治25年~大正10年までの30年間の移住者は、1888万7000人。
東北地方から約76万人、北陸地方から56万人、四国地方から14万人が。
出典:山川出版社『県史北海道の歴史』

第一次世界大戦後の不況
日露戦争後の不況よりも、第一次世界大戦後の不況の方が、北海道移住を後押ししたとされている。
それほど規模が大きく、全国的なものだった。

第一次世界大戦(1914年大正3年~1918年大正7年)が終わると、鉱山関連での不況が明らかになる。
大戦で鉄鋼の輸出をストップしていた英・米・仏は解禁し、強力な競争国の復活で日本の輸出は低迷する。
北海道の重要産業の一つだった石炭は、価格が下落し、山、港、市場に在庫があふれる。
同じことが製鉄・鉄鋼でも。
好景気中に強気で設備投資し、増産をした操業が止まり、余剰人員の首切り旋風が各地で起こった。

第一次世界大戦景気で湧いたもので有名なのが、
成金は造船業や海運業の成金が有名だが、澱粉雑穀の生産者あるいは取扱業者も、北海道では多かったといわれている。

大戦により、青エンドウの輸出が激増した。
大戦前まではドイツ・オーストリアに豆を輸出し、そこからイギリス・アメリカに送られていたが、大戦で直に輸出することになる。菜豆類も。
戦前の値段に比べて8倍も値が上がり、小樽の港が農産物で賑わう。
大金を手に入れた農家が、心配のあまり札束を袋に縫い込み、それを背負い歩いた、郵便局のポストに札束を突っ込んで帰ってきた、なんて話もあったほど(真偽は不明だが)、豆農家は潤った。
しかし、大戦後は需要が激減し、製造工場は溢れた豆の倉庫になる。
澱粉は食用以外に、工業用の糊(のり)として需要が急増した。

大戦景気が終わると不況になり、その結果、樺太移民が増えた。
出典:『星霜Ⅴ 北海道史』

第一次世界大戦とニシン漁
大正時代、ニシン漁が盛んになる。特に大正9年。
これは、第一次世界大戦で水稲をはじめとする耕作面積が拡大し、肥料としての鰊の需要が高まったからだった。
大正9年は鰊成金が生まれ、この時期がニシン漁のピークとされる。
近隣の農家は出稼ぎに行き、1日4円、飯付きでもらい、夫婦共に稼いで半年で120、130円も稼いだ。
出典:『星霜Ⅴ 北海道史』
※ニシン漁のピークは明治30年(1897)とも。
山川出版社『県史北海道の歴史』によると。
いずれにしても、昭和13年には記録的な大凶漁となり、32年を最後に鰊は北海道の沿岸から姿を消す。

亜麻(アマ)作り
第一次世界大戦景気で、亜麻作りも盛んになった。
大正中期が最盛期。
亜麻は開拓時代にアメリカ、イギリス、ロシアなどから種子を輸入しし試作した結果、北海道の適地作物となった。
明治20年から全道に広がり、日清・日露・第一次大戦により、生産を増やした。
亜麻は、衣服・天幕・兵器のカバー・帆布など、軍需品の急増により需要が増え、亜麻の黄金時代がくる。
大戦の終了で需要が激減し、その後、北海道での栽培がなくなった。
出典:『星霜Ⅴ 北海道史』

大正時代の北海道移住
関東大震災による北海道への避難者は1万人以上。函館、札幌、小樽、旭川の順に多く、中には樺太に移住した者も。
大正末期から戦後不況による就職難で、さらに移住者が増えた。
が、出稼ぎの単身者は大戦後の不況で故郷に帰る者もいた。
そのため北海道の人口は伸び悩んだ。
出典:『星霜Ⅴ 北海道史』『星霜Ⅵ 北海道史』

昭和(戦前)の不況(北海道の)
昭和6年(1931)、冷害により、一粒の米も獲れなかった農家が、50%あったという。全耕作面積の。燕麦(えんむぎ)が代用食になり、えん麦に粟、トウモロコシを混ぜたものを食べた。
翌、昭和7年は、道内各地で水害が起こり、2年連続の凶作となる。

大正末期の凶作、昭和初期の恐慌、冷害凶作、その後の米価下落により、北海道で没落農民が増加し、その多くがタコになった。
(タコ部屋労働をした)
出典:『星霜Ⅵ 北海道史』

北海道の米作
明治初期の開拓が始められた当初の北海道は、米が育たない土壌だった。
明治初期、お雇外国人(トーマス・アンチセル、ケプロン、クラーク)から、米作の不向きを指摘され、米作よりも麦作が、米食よりもパン食が勧められた。

しかし米を作りたいという声は絶たなかった。
各地からの移住者たちから。士族・屯田兵・農村移住者たちから。
そのため細々と、道内各地で米作が挑戦され続けた。

米作の父は中山久蔵とされているが、米作功労者は71人、3農場、18組合ある。
中山久蔵が撒いたのは「赤毛」。苗代、本田ともに風呂水を注いで温め、徹夜で見回りを続けるという、創意と血の滲むような努力があった。
以後年々田を増やし、明治12年には種籾1石を全道各地の農民に無償で配った。
中山は記念すべき産米100万石の日を待たずして、明治42年に92歳で自殺している。
日本精糖と政界の黒い霧事件をめぐり社長としての責任を感じたとされている。

こうした例が各地であったらしい。
米作は道南から一気に道央まで北進し、明治26年には、米作の否定から奨励に、政策が一大転換した。
出典:『星霜Ⅴ 北海道史』

米作りが推奨されたのは、牛馬の飼料としての稲藁の需要も、その背景にある。
出典:山川出版社『県史北海道の歴史』

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