【奈良県】世界遺産法隆寺の魅力法隆寺ブログ⑥大宝蔵院と夢殿・礼堂・絵殿舎利殿 ・鐘楼・伝法堂

奈良県
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法隆寺で有料ゾーンで拝観できる場所は、西院伽藍の回廊の中と大宝蔵院、東院伽藍の回廊の中。
今回は大宝蔵院と東院伽藍の回廊内を紹介する。

聖霊院・東室・妻室

まずは中門から夢殿に向かう際に見える建物から。
法隆寺を参拝する多くの人が回廊の中を観た後は、大宝蔵院に行って夢殿に行くというルートで歩くと思う。
その順番で国宝や重要文化財を見ていこうと思う。

参考までに境内図を

回廊の出口の隣には聖霊院(しょうろういん)と東室(ひがしむろ)がある。
大宝蔵院に向かう途中で目にする。

聖霊院は聖徳太子を祀るために平安時代に造られたお堂で、鎌倉時代に建て替えられた建物。
国宝に指定されている。

お堂の中の厨子には平安末期の聖徳太子の像が安置されている。

鎌倉時代は聖徳太子を神格化して信仰の対象とする
太子信仰が最も盛んになった時代だった。
太子信仰は大工からの信仰も集めた。

聖徳太子は中国大陸から当時進んだ寺院建築を採り入れたので、建築技術を広めた人物、大工の祖としても信仰されたという。

聖霊院は元々僧侶が住んでいた建物の南側の3分の1を改造したもの。
奥の3分の2は東室といい、今もなお僧房としての面影を残している。
飛鳥時代に造られた建物で国宝に指定されている。

東室の向かいの妻室は、平安時代後期に僧坊として造られた建物。
後に大きく改修された。

馬屋・綱封蔵・食堂

その隣には馬屋がある。

聖徳太子の本来の名前は厩戸皇子(うまやどのおうじ)で、母親が厩の前で聖徳太子を産んだことから
名付けられたという説がある。
これはキリストの誕生と共通している。

真偽のほどは分からないが、一説には、唐の時代にキリスト教の一派である景教、ネストリウス教が流行していたことと関係があるのではないかといわれている。

聖霊院の隣の大宝蔵院に向かう道の途中には綱封蔵(こうふうぞう)がある。

平安時代に造られた寺宝、寺の宝物を保管するための蔵で国宝。

風通しをよくするためや寺宝の出し入れをしやすくするために、中央が吹き抜けになっている。

修理の跡のような、他の木が差し込まれていた跡のようなものがある。
柱も礎石も立派。

その隣には、垣で見えないが食堂(じきどう)と細殿(ほそどの)がある。
食堂は奈良時代に造られた建物で国宝。

元々は寺務所だったものが平安時代に僧が食事をする場所となり、食堂(じきどう)と呼ばれていると説明板にある。

そしてその奥には宝物殿の大宝蔵院がある。

大宝蔵院

大宝蔵院には法隆寺に伝来する数々の名宝が安置されている。
日本史の教科書や資料集に載っている有名な国宝を間近で観ることができる。

夢違観音(ゆめちがいかんのん)像や百済観音像、
玉虫厨子(たまむしのずし)が特に有名。

写真が撮れないのが残念たが、解説が分かりやすくていい展示。
仏像であれば木像・銅像・塑像・乾漆像・石造と
あらゆる素材で作られたものが揃い、また飛鳥時代から近代にいたるまでの様々な時代の仏像を観ることができる。

日本にはない白檀の木で造った九面観音像が個人的には見ごたえがあった。

夢違観音像は白鳳時代に作られた像で、この像に祈ると悪い夢がいい夢に変わるとの伝説から、夢違観音と呼ばれ親しまれてきたといいう。

玉虫厨子(たまむしのずし)は飛鳥時代のもので、
釈迦の前世の説話が描かれているのが有名だが、
上部の錣葺(しころぶき)という屋根の仏殿が金堂より古い建築様式を表しているのも、見どころの一つ。

百済観音像は飛鳥彫刻を代表する像で、高さが209.4㎝ありすらりと伸びた体に優しく微笑みかける柔和な顔が特徴。
独特の表情がなんとも言えない。

陀羅尼経の入った百万塔を見れたのも非常に印象的だった。
造られた時期が分かる物の中では、世界最古の印刷物で知られている。

大宝蔵院は圧巻の展示で、いい意味で疲れる。
一つ一つが貴重な宝物なのでじっくり観ると、全て見るのに時間がかかり本当に疲れる。
大宝蔵院だけでくたくたになる。

法隆寺は南大門から見ごたえがあり、南大門、築地塀、中門、五重塔、金堂を楽しんだ後に大宝蔵院に入ると、もう集中力が持たない。

建物の内部は三部構成になっていて、最初が仏像の展示、次が百済観音の展示、そして絵や弓矢ら伎楽の展示となっている。
入る度に新しい発見があっていい。

法隆寺の豊富な国宝

7世紀の初め607年に創建された法隆寺には、国宝ならびに重要文化財に指定されたものだけでも190件の宝物類があり、点数にして約3000点に及ぶという。
※件数や点数はあくまで一説で諸説ある

これほどの宝物類があるのも法隆寺の魅力であり、
また他の寺院にはない特徴である。

実は、法隆寺で保管されてきた宝物類は他にもあり
それらは東京の国立博物館で観ることができる。

法隆寺は明治時代の廃仏毀釈で経済的に困難な状況になり、その際、皇室に宝物類を献納しその危機を免れた。
明治11年(1878年)に聖徳太子の肖像画や、隋や唐からもたらされた金や銅の仏像など、300余りの宝物を皇室に献納し、一万円、今の価値で数億円とされるが、を下賜(かし)され、それを伽藍の修理や維持に充てたという。
※一部は皇居の三の丸尚蔵館に現在も収蔵されている

宝物類は皇室に献納されたため、海外への流失を免れた。

現在は東京国立博物館に移され、法隆寺宝物館で観ることができる。
相当の数があり見ごたえがありそちらも大変お勧め。

築地塀と東大門

大宝蔵院から夢殿に向かう道は、土塀に囲まれた白い参道で雰囲気が素晴らしく、瓦を間近で観れるのがいい。

法隆寺の創建当初の伽藍は若草伽藍と呼ばれていまるが、この塀の奥にあった。
天智天皇9年670年の火災で焼失し、再建の際に現在の場所に建てられた。

こちらの東大門は奈良時代に造られたもので、珍しい三棟造りの奈良時代を代表する建物の一つで、国宝に指定されている。
かつては鏡池の東側に南向きに建っていおり、平安時代ごろに現在の場所に移されたといわれている。

門の横の築地塀も見どころの一つ。
桃山時代から江戸時代に造られたものらしい。

粘土を棒で一層ずつ何層にも突き固めて造り、風雨にさらされ少しずつ削れ、縞模様になっているのが、
また時の経過を感じさせ、風情があり、いい光景だ。

東院伽藍

東大門を出ると向かいに夢殿のある東院伽藍がある。
東院伽藍は元々は、金堂や五重塔、大宝蔵院のある西院伽藍とは別の寺院だった。

西院は聖徳太子によって創建された斑鳩寺を起源としているのに対し、東院は聖徳太子の遺徳を偲ぶ施設として創建された。
※出典:『日本の古寺』

東院伽藍のあるこの場所は、聖徳太子が住む斑鳩宮(いかるがのみや)があった所で、太子の死後、蘇我馬子に襲撃されて荒廃し、後に東大寺の行信僧都(ぎょうしん そうず)が復興した。

※行信:奈良時代の僧
天平10(738)年 律師に任じられ、この頃から法隆寺東院の復興に尽力

夢殿

夢殿は回廊の中にある。
夢殿は聖徳太子の徳を偲んで造られたお堂である。
奈良時代の天平創建の国宝だが、鎌倉時代に大修理をしたため、建築様式は鎌倉時代のものになる。

法隆寺の中でも最も素晴らしく美しい建築と言われている。

※お勧めの撮影スポット

見どころの一つは八角形をした形で、この八角形という形は屋根を抑えるのに難しい構造という。

一般的な四角形の屋根であれば四隅を抑えればいいのが、これが八つとなるとバランスが非常に難しくなる。
難しいということは建築技術が高いということになる。

てっぺんに重みのある宝珠を乗せて屋根を抑えているが、蓮の蕾(つぼみ)は当時の極楽思想を表しているという。

見た目では分からないように、柱を少しだけ内側に倒して安定させている
※より

八角形をしたお堂は、日本では個人を追悼する意味があり、また記念堂に使われると言われているが、
夢殿はお釈迦様が一生のうちに経過した八種の相を表しているという。

八種の相は釈迦八相ともいい、降兜率(ごうとそつ)・入胎(にったい)・出胎・出家・降魔(ごうま・または住胎)・成道・転法輪・入滅をさす。

※降兜率(ごうとそつ)は兜率天から下ったこと
降魔(ごうま)は悪魔の誘惑に打ち勝つこと
成道は悟りを開いて仏になること
転法輪は説法・教化したこと

基壇が高いのも特徴。

夢殿という名前は聖徳太子の夢の中に現れた黄金の仏の伝説に由来している。

絵殿・舎利殿

絵殿・舎利殿は鎌倉時代の重要文化財で、仏舎利が納められている。
もともと聖徳太子縁りの品々を保管する蔵で、平安時代に改造され、西側は聖徳太子の生涯を描いた絵が壁面にはめ込まれた絵殿となり、東側は舎利を納める舎利殿となった。

舎利殿で大切に保管されてきた聖徳太子ゆかりの宝物と絵殿の障子絵は、明治時代に皇室に献納され、
そのほとんどは現在、東京国立博物館に所蔵されている。

鐘楼

夢殿を囲む回廊を出ると鐘楼と伝法堂がある。
鐘楼は鎌倉時代に造られたもので、袴腰(はかまごし)と呼ばれる形式の建築物。

下の部分の覆っている所を袴腰(はかまごし)といい、鐘を打つ際の揺れを支えている。
袴腰の鐘楼では一番古いもので、ここで造られたのち、各地でこの様式が広まった。
※『木に学べ』より

建物の頭が大きいのが特徴であり、また独特の美しさがあると評判。

屋根の形を決めてから下を造り、斗ばかりを積み上げた梁が大きい。
これ以前は柱の上に大斗や肘木を積み上げて、桁とか梁とかを置いて組み上げていた。
内部には中宮寺と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊るされている。

伝法堂

伝法堂は聖武天皇の夫人だった橘古那可智(たちばなのこなかち)の住宅を仏堂に改造した奈良時代の建物で国宝に指定されてある。
純粋に天平の様式を残している数少ない建物である。

柱に少しエンタシスがあり、柱の上に大斗を置いて上に肘木をのせ、虹梁の上に蟇股(かえるまた)が組まれて桁(けた)や棟木(むなぎ)を受けている。

法隆寺の多くの建物と同様、頑丈な構造でまた奈良時代の建築の典型とのこと。

壁が見事で、白い壁と柔らかな組み合わせが美しいと評判。
よく見ると軒が二重になっている。
当時のお堂としては珍しく、床が板張りとなっているのも建築上の特徴。

と一般的には説明されるが、実は(旅の後で知ったが)、伝法堂は東院伽藍の講堂なのだそうだ。
奈良の古寺は講堂の遺構はごくわずかしかないので貴重な建築物である。

かつてはどの寺院にも講堂があったが、後になると必要性があまりなくなり再建されることが少なく、講堂の遺構はほとんどないという。
奈良時代のものは唐招提寺の講堂と法隆寺の伝法堂、平安時代のものは法隆寺の講堂だけと読んだ本には書かれていた。
『奈良の寺々 古代建築の見かた』より

その奥には中宮寺があるが、受付で世間話をしている声があまりにも大きかったため、入るのをやめた。

※国宝の菩薩半跏像(伝如意輪観音)が有名。
半跏思惟のこの像は、飛鳥時代の最高傑作のひとつであり、
日本の美術史上、欠かすことの出来ない存在とのこと。
中宮寺HPより

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