唐招提寺には鑑真和上の墓所である開山御廟がある。
こちらが素晴らしいので、参拝した際は是非とも訪れてもらい。
開山御廟の前の瓦土塀

金堂や講堂、宝蔵・経蔵などの歴史のある建物から離れて、境内の北東の奥まった場所に行くと、鑑真和上が静かに眠る開山御廟がある。


開山御廟への道には何とも美しい土塀がある。

瓦が中に積まれている土塀を瓦土塀と言い、瓦を土に入れることで塀の強度が増し、水捌けがよくなり長持ちする。
土塀は通常、雨水が浸み込むともろくなり崩れてしまう。
見た目も美しく、意匠と実用性を兼ね備えた、昔の人の知恵がつまった工法だ。
瓦は主に屋根や塀などに使われていた、古いものを再利用しているため形が不揃いだが、これがまたいい印象を与えている。

瓦土塀は東大寺でも見れる。
熱田神宮の信長塀も有名。
※桶狭間の戦いの直前に熱田神宮で先勝祈願をした織田信長が
今川義元を破った後に熱田神宮に感謝を込めて奉納した土の塀
開山御廟
鑑真の功績

開山御廟に入ると、両脇に苔がむし木が並ぶ、素晴らしい道が続く。
鑑真が亡くなってから1250年に亘って、祈りを捧げる人が途絶えない場所。

奈良時代の名僧鑑真は、5度の航海を失敗し盲目になりながらも
6度目に日本に来た、不屈の精神の持ち主として知られている。
鑑真が日本に戒律をもたらしたおかげで、日本の戒律制度が急速に整備されたが、鑑真の功績は戒律の普及だけではない。
鑑真は律宗と天台宗を兼学しており、天台宗の経典も日本にもたらした。
鑑真によって天台宗の教義が広まり、後に最澄が活躍する土壌がつくられ、鑑真は律宗よりも天台宗に大きな影響を与えた
とさえいわれてる。

また金堂の天井画や鼓楼でふれた舎利信仰をはじめ、仏像・仏具・経典・薬品・彫刻など、あらゆる仏教に関するものをもたらした。
鑑真が日本にもたらした影響は芸術面でも見られ、鑑真に伴って来日した、彫刻家や刺繍工などの技術者が、唐の彫刻技術や綿や綾の織物の文様などを広めたという。
それにより、それまで日本になかった技術が広まり、美術・芸術の発展に大きな影響を与えた。

鑑真は医学の知識を広めた人物でもある。
薬草や薬学の豊富な知識を持ち合わせ、目が見えずとも匂いだけで薬を鑑定することができ、多くの薬を日本にもたらした。
中には唐よりもさらに西域の薬もあったという。
※ 西域:概ね中央アジアを指し、時にはインドや西アジアまでを指すこともある。
中央アジア5か国はウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン。
聖武天皇の母の病が悪化した時には、鑑真が差し上げた薬が効き、大僧正の位が授けられたという。
鑑真が日本に持ってきた薬は現在も正倉院に残されているといわれている。
当時の薬は薬草がメインだったが、動物や爬虫類、虫などの生き物や、石英や硫黄などの鉱石もあった。
砂糖は江戸時代までは薬として使われていたことはよく知られているが、砂糖も鑑真が日本にもたらしたともいわれている。
このようなことから、薬草や薬学ももたらした鑑真が日本の医学の発展に大きく貢献したことが分かる。
律宗は学問だけでなく実践を重んじ、万民救済に取り組む宗派なので、鑑真の知識は医療活動にも活かされ、社会事業にも貢献をもたらした。
詳しいことは調べても分からなかったが、興福寺に悲田院をつくり、貧民救済にも積極的に取り組んだという。

平城宮跡歴史公園に行った際は、鑑真像をご覧になるのがお勧め。
天平うまし館にある。
中国に残っている文献から鑑真の容姿を想像して造ったもので、壮年の姿をしている。
日本の鑑真像は鑑真の晩年の姿を現しているので、日本のとは違う鑑真の姿を知ることができる。
以前訪れた時に、スタッフの方が是非見てくれと勧めてくれた。
鑑真の来日の苦労

鑑真の来日の苦労も記しておきたい。
鑑真の来日は苦難の連続だった。
遣唐使船で唐に行った普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)の2名の興福寺の僧が、鑑真を日本に連れて来ようとしたが、当時の航海は命懸けであった上に、唐から出国することは犯罪にあたった。
鑑真は26歳で戒律の講義をし、4万人もの弟子に戒律を授けるほどの人物だったので、鑑真の身を案じ、鑑真が唐を離れ異国の地に向かうことを止めさせようとする、弟子や信者が少なくなかった。
※『週間古寺をゆく8 唐招提寺』より
そのため1回目の渡航計画で鑑真の弟子が密告し、出航前に発覚し普照と栄叡が捕まった。
2回目は船が出航するも強風で難破し、3回目・4回目も密告により出航できなかった。
5回目は出航できたものの嵐に遭い、ベトナムに近い海南島まで流され、陸路で揚州へ戻る途中、栄叡が病死してしまう。
鑑真の高弟も亡くなり、鑑真自らは失明してしまう。
そして6回目で遂に日本に帰る遣唐使船に乗れるが、船が沖縄に流され、沖縄から奄美大島、鹿児島の秋目、大宰府へと移動し、ようやく奈良に来れた。
※船に乗れたのは、遣唐副使の大伴古麻呂の機転のおかげだった。
日本に来るまで12年かかり、鑑真は当時既に66歳になっていた。

鑑真が苦難の末に来日する様子は、井上靖の名作『天平の甍』に書かれている。
この本を読んで唐招提寺を訪れる人は少なくないといわれ、かくいう自分もそうだ。
唐招提寺に参拝する際は『天平の甍』を一読するのがお勧め。
御廟の前には、鑑真の故郷・揚州から贈られた瓊花(けいか)が植えられている。
初夏に花を咲かせるらしい。
鑑真は天平宝字7年763年にこの地で亡くなった。
享年76歳。
鑑真が日本にもたらしたものは、戒律だけでなく多岐にわたり、日本のさまざまな分野に多大な影響を及ぼした。
鑑真の死後1250年に亘って祈りを捧げる人が絶えないのも、そうした理由があるのではないかと思える。
訪れた時は中国語を話す観光客が結構いた。

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