はじめに
明治時代より本格的に進められた北海道の開拓は、原始林が広がる鬱蒼とした広大な土地を、冬の厳しい寒さと雪のなか、進められた。
士族や屯田兵、農村からの団体移住者が多くの困難を伴いながら、苦労の末にようやく未開の地を切り開き、それが現在の北海道の繁栄の基礎となった。
しかし、その影には、囚人による労働やタコ部屋による過酷な使役があり、酷い労働環境のなか尋常でないスピードで道路や橋、トンネルが造らるという、悲惨な歴史もある。
今回はから数回にわたり、近代の北海道の開拓の歴史を紹介する。
当時の時代背景とともに士族の移住、屯田兵、農村からの団体移住、囚人労働、タコ部屋労働とそれぞれにフォーカスを当ててゆく。
北海道で行われた開拓には、日本の他の場所で行われた同様の事例があり、近代日本の一面を表しているものとも言える。
この記事が、読者の方が北海道に興味をもつきっかけに、また近代という時代に関心を持つきっかけになれば、と思う。
北海道開拓が行われた時代背景
まずは、北海道が開拓された時代背景を簡単に。
北海道が開拓されたのは明治時代になってからで、その目的は主にロシアの南下の脅威に備えるためと、豊富な天然資源を近代化に用いるためだった。
江戸時代後期から危惧されていたロシアの南下は、明治時代になるとより現実的になり、早急に北海道に兵を置き土地を防衛する必要に迫られた。
しかし、当時の北海道の大半は、鬱蒼とした木々が生い茂る原始林で、人が住める場所でなければ、物資を輸送できる場所でもなかった。
そこで明治政府は、国土防衛のため、インフラ整備に取り掛かると同時に、国民にあの手この手で北海道への移住を勧め、北海道の発展に急いだ。
北海道には豊富な地下資源と木材があり、これらは日本の近代化に役立った。
石炭や硫黄は国内の産業に使え、樹木は様々な木材に使え、また海外に輸出し外貨を獲得できた。
そのため輸送網を整備し、港をつくり鉄道を敷き、これらの資源を活用した。
北海道の近代化を表す言葉に「炭鉄港」というものがある。
空知の石炭、室蘭の鉄鋼、小樽の港、そしてそれらを結ぶ鉄道を表したもので、この言葉から北海道の近代化の一面が分かる。
明治政府により、こうした北海道の防衛と地下資源の活用、インフラ整備が国力増強のために行われたが、これは同時に士族授産のためでもあった。
※士族授産:秩禄処分により職を失った士族の救済のため農・工・商業への転職などを勧めた政策
士族に対して北海道への移住が勧められ、また屯田兵の募集が行われ、東北諸藩をはじめとした各地からの士族が北海道に渡った。
国により勧められた北海道移住は、当初は人気がなく仕方なく移住する者が少なくなかったが、明治中期以降になると、移住を希望する者が増えた。
明治中期になると日本の人口が増え、食糧が不足し生活するために海外へ移住する人が増えた。
北海道は海外に比べて情報が多くリスクが低いと思われ、人気が出た。
加えて、水害などの自然災害で住む家を無くした人たちも北海道に移住するようになり、北海道の開拓が進んだ。
関東大震災が起こった大正時代も、被災者の一部の人が北海道に渡った。
こうして、北海道の人口は増え、発展していった。
初期の移住 浮浪者
北海道の開拓といえば、中学の歴史でも教わる屯田兵が知られているが、その前に政府による北海道移住政策があった。
それは、政府が募集した移住民を北海道に送り込んで、定住させるというもので、政府が移住希望者に米や費用、農具などを支給し、移住の補助をするといったものだった。
※出典:「水土の礎 明治の礎 北海道の開拓」HP
しかし、それほど効果はあげられず、明治5年には募集をやめ、既に定着した移民への援助に切り替えた。
明治時代を迎えた当初は、北海道に住もうとする者などなく、始めは東京の浮浪者や無宿人を集めて北海道に移住させた。
また、明治期の北海道には徴兵制がなく、北海道庁はこれを逆手にとり移住を勧めた。
徴兵のなかった地域は、他に沖縄県と小笠原諸島だけだった。
※出典:『県史 北海道の歴史』山川出版社
しかし、一攫千金を夢見て来た者の中には、血の気が多い輩も多く、長屋を壊して焼いたり、官吏の奥さんに暴行し、送り返される者もいた。
また、北海道の極寒の冬は、それは移住者には厳しいもので、東京から移住した者の2割が、冬になると病気で亡くなったという。
※出典:『星霜Ⅰ北海道史』
初期の移住 士族

同時期の明治初期に、士族の移住も勧められた。
戊辰戦争で敗れた幕府側の東北諸藩の藩士らは、賊徒とされ土地を没収され、厳しい生活を強いられたが、その一部が北海道に渡った。
明治3年のこと。
移住を決めたもののその費用がなく、鎧兜、能や茶の道具、書画装飾品などを売って何とかお金を工面した。
仙台藩一門の亘理(わたり)伊達家では、先祖代々受け継いできた、生まれ育った土地に、二度と戻るまいと涙を流し、先陣が北海道に渡るも冬になり、50cmの大雪が降る中で小屋作りをしたという。
その翌年に、後陣700人以上が後に続くが、農具を積んだ船が遅れ、開墾が進まず、食べ物は人参や牛蒡、フキを食べて凌ぎ、ホタテの貝殻をお椀がわりにした子供が、口を切って血だらけになりながら、食事をしたという。
出典:『星霜Ⅰ北海道史』
札幌の北海道開拓の村では、移住者が住んだ家を復元したものを見ることができる。
それを見ると、当時の生活がいかに悲惨なものだったかが分かる。
草葺きの掘っ立て小屋の、床もなく地べたに野草を敷き、その上にムシロを重ね、入口はムシロを一枚下げただけの、壁は草壁で、あまりに寒い家だ。
煙にむせながらたき火をし、朝はたき火をすると垂れ下がっているスス混じりのツララが溶けて、朝ご飯の鍋の中や、食事中の茶碗に落ち、また食事している人の首筋に落ちたという。
開拓使のあった札幌周辺では、一酸化中毒を防ぐために、明治9年に火鉢の使用が禁止された。
そのせいで、むせながらたき火をしなければならなかった。
ストーブが普及したのは明治の末期になってから。
(ストーブは明治以前、既に北海道で製造されていた。幕末の箱館製ストーブというらしい。だが普及はしていなかった)
今のような靴もなく薄い藁沓を履き、突き刺さるような雪の冷たさに泣いた。



家の周りには熊やオオカミ、狸や蛇が生息し家畜を襲った。
そのため、オオカミは毒殺して減らした。
ついでだが、エゾシカは鹿の角が薬用として中国に売れたため、乱獲され、角を集めるために原野に火が放たれ、農家が困ることがあった。
北海道では蝗害というバッタによる被害もあり、明治16年の被害は大規模なものだった。
その他に、日照りやマラリア病との闘いもあり、北海道の地は、まさに「試される大地」と言った、厳しく過酷な場所だった。
十勝に移住した晩成社が10年でわずか30haしか開墾できなかったことからも、その厳しさがうかがえる。
※晩成社:依田勉三が北海道開墾を目的として結成。
明治16年(1883年)から帯広を開拓。
10haは100,000平方m。正方形なら一辺が約316.23mの土地。東京ドーム約2.14個分とも
一説には、晩成社は20haしか開墾できなかったといわれている
メモ
北海道にあった東京府
明治初期、北海道の一部に、東京が管轄する地「東京府」があった。
住人は東京府民となるが、その実情は、東京にあぶれた困窮民を保護するものだったという。
新政府で予算と食糧を消費した東京には、あぶれた民衆を使って産業を起こす力がなかった。
そこで、表向きは、東京の困窮者に生業を与えるというものにして、東京の浮浪人を北海道の東京府に移住された。
その実は、根室•花咲•野付の三郡を開拓使から取り上げるためだったらしい。
根室の開拓の責任者 (開拓大判官)だった、松本十郎がそれを阻止し、彼の功績を讃えたため、根室に松本町があるという。
嫌われた徴兵制
徴兵制免除は北海道移住の大きな動機づけになったと思われる。
日清戦争後、北海道で第七師団ができると、徴兵逃れができなくなるが、兵が集まらなかった。
明治34年には北海道の人口が百万人を突破しても、兵が集まらず、本島(内地)から兵が送られたという。
本願寺道路
明治3年から明治4年にかけて、東本願寺による道路開削が行われた。
区間は札幌と箱館の約103km(104kmとも)。
現在の国道230号が、それにあたるとされている。
工事には僧侶のほか、士族と平民の移民、アイヌが従事した。
江戸時代、東本願寺は徳川家の恩顧があったため、明治時代になると、新政府から取り潰しの危機に遭う。
そこで東本願寺は、北海道の道路開削をすることで、生き残る道を選んだという。
明治政府は、当時、既に北海道の拠点として開けていた箱館から札幌へのルート開拓を急務としていた。
が、財政難で北海道の開拓を手がけることが不可能だった。
そこで、全国に宗門徒を抱えていた本願寺に、苦し紛れに目をつけた、とされている。
表向きは、東本願寺が北海道の道路開削を申し出たことになっているが、実質的には、政府からの命令ともいうべき状況であったという。
廃仏毀釈のような仏教への世間の逆風があったのも、大きい。
1年という短期間だが、雪が降る時期は作業ができないため、実質8カ月くらいの期間での作業だったという。
『厳如上人開拓絵』という20枚の絵があるくらいで、資料はなく、相当厳しい工事だったとされている。
一部、Wikipediaの本願寺道路から、一部『星霜Ⅰ北海道史』から
YouTube動画
こちらでも紹介しています。よろしければご覧ください。


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