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北海道開拓の歴史⑥タコ部屋労働Ⅱ メモ・タコ経験者の証言・補足

北海道
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メモ

タコ部屋の構造
一番偉い親方は、管理人、小頭、部屋頭ともいわれた。
その代理格が世話役で、土工夫の配置、仕事の割り当て、段取りなどを決めた。
その補佐役が帳場で、部屋内の記帳、会計事務にあたった。
そして、それらの下に、数人の棒頭がおり、棒頭は、一人で十数人の土工夫を受け持った。
少し格が落ち、飯台取締がいて、部屋内の物品配布や起床就寝の指図した。

こうした縦の階級があり、食事は横の階級があった。
上飯台は世話役、帳場、棒頭で、最初に入浴できて、食事も特別製、酒も好きなだけ飲めた。
次が中飯台で、飯台取締と平土工夫のうちの熟練工。
食事前に風呂に入り、食事も座ってでき、酒も銚子(徳利)2本まで飲めた。
最下層の下飯台は、飯は立ち食い、酒は茶碗1杯までだった。
※出典:『星霜Ⅳ 北海道史』

タコのノルマ
最低でも1日1坪。8尺(2m42cm)立法の土を掘って運んだ。
※出典:『星霜Ⅳ 北海道史』

大資本とタコ
大資本は、タコ部屋を携えて、朝鮮•満洲•樺太へも向かった。
鉄道敷設や土木建築に、タコ部屋労働を用いた。
国家が容認したと言わざるを得ない。
そいう時代だったことが、タコ部屋労働から分かる。
故郷が凶作で出稼ぎに来た者を騙して、連れて行った。 
※『常紋トンネル -北辺に斃れたタコ労働者の碑-』

樺太でのタコ労働
樺太は、北海道以上にタコ労働が盛んだった。
鉄道•道路•港湾•工場の建設が、1906年明治39年より一斉に始まり、建設業者は樺太を天国と呼んだという。
仕事が腐るほどあり、手付かずの土地で業者は儲けに儲けた。タコを使って。

樺太の人口は、1906年、1万2000余人だったが、太平洋戦争がはじまった年の1941年(昭和16年)には、40万人になっていた。
これらの人口は、大企業による水産・森林・鉱物資源の乱獲による開発に使われた。
樺太経営は資源乱獲の40年だったといえる。
そして、中国人・朝鮮人・アイヌ人を含む鉱夫・杣夫・漁夫・タコの労働力の摩滅の40年でもあった。

軍事関連でもタコが使われ、樺太では飛行場がタコを使って造られ、石炭の採掘に朝鮮人が使われた。
そうして大資本は成長した。

隠れみのとなったタコ部屋
樺太のタコ部屋は、隠れ場でもあった。
日本で犯罪を犯した者・脱走兵といった、負い目のある者や、ロシアに越境したい人が、樺太に行き、タコ部屋に隠れた。

昭和初期の恐慌とタコ
北海道を開拓した農民を襲ったのが、大正15年(1926)の凶作。
昭和初期には恐慌が起こり、農作物の価格が暴落し、その後も冷害凶作となり、米価下落が続いた。
これによりせっかく開墾した土地は差し押さえられ、北海道の農民が没落し、その多くがタコになったという。
※『常紋トンネル -北辺に斃れたタコ労働者の碑-』

顔の割れていたタコ
有名な渡りのタコが、以前逃げた場所に送られることになった。
幹部に顔を覚えられていたので、「お客さん、お風呂に入りなさい」と言われ、風呂場に連れていかれ、水風呂に入れられて、数人に叩かれた。
「あなた方は使えない」と言われ、帰らされた。
なんて話もあった。
※出典:『常紋トンネル -北辺に斃れたタコ労働者の碑-』

タコが容認された当時の時代背景
タコを容認・黙認した当時の政治家の思考はどんなものだったのか。
富国強兵のために背に腹は代えられない、という考えだったのか、人口増加で人は余るほどいるから、使い潰せばいいと思っていたのか、騙される奴が悪いという、自力救済の考え(室町・戦国時代からの思考)だったのか。

『常紋トンネル -北辺に斃れたタコ労働者の碑-』の著者は、軍隊生活がタコを正当化する思考をつくった、としている(189P)。
軍隊では、人間が本来持っている弱者救済の思想を失わせ、上に弱く下に強い人間をつくりだし、要領のよさやずる賢さを世渡りの術とする考えがあり、それを叩き込まされた帰郷兵によって、地域社会に持ち込まれ、タコや弱者は要領の悪いクズで敗者の厄介者という見方を住民にたたきつけたと。
こうした視点は興味深いが、戦後によくある軍を悪者にした視点であるとも見れる。

タコ部屋経営者の意見
タコ部屋は、道庁の許可を取り、警察部長の指導でやった、と戦後の訴訟で主張している。
警察の指導項目に「逃亡防止」とあるから、外から施錠した。
戦後、管理人は一律懲役6ヶ月、執行猶予2年、経営者は無罪。
土建請負業者からすれば、「北海道開発だ」「軍需生産だ」「国策だ」と、役人や警察がタコ部屋経営者の尻を叩いて、タコ労働を使っておいて、戦後は解散・処罰を素知らぬ顔をし、業者だけを悪者扱いにした。
と主張している。
タコ部屋を許可し、指導し、タコ労働で造られた鉄道を使った道庁や警察や軍は、責任を持たなかった、と主張している。

軍関連ではこんな話も。
大東亜戦争中、日本人の工夫は入手困難になり、中国人・朝鮮人を道庁と勤労動員署(警察のことか)が斡旋して割り当てた。
やっとのことで集めた50人のタコを、東京から連れてきたところ、青森の大湊の海軍から50人を徴用するから小樽まで連れて来いと命令され、1日も働かせることなく軍に取られた。
1ヶ月後に4人不要になったから大湊に連れてこい、と言われて行ってみたら、どうしたらそうなるのかと思うほど、廃人同様にされた4人がいて、連れて行けといわれた。
こんな人間ならいらないと言うと、海軍をなめるのかと怒鳴り、大湊に連れて行き、旅費を渡して4人とも返した、と。

タコ経験者の証言

実際にタコを体験したことがある人の証言で、有名なものに、石島福男の遺書がある。
要約すると、以下の通り。

1912年(大正元)、友達に誘われて東京に来て、職を見つけるが、仕事に就けなかった友達が、北海道に渡らないかと勧められる。
友人と別れるのが寂しく、また申し訳なさから、決まった仕事を辞め、北海道の仕事を探した。

募集の広告を見て話を聞いたら口車に乗せられ、横浜から北海道に木材を積みに行く汽船に乗せられ、30数人一同監視つきで乗った、まるで囚人護送のように。
様子がおかしいから北海道に帰る人に聞いたら、自分の団体は、鉄道工事に使役する土方だと言われ、生きた心地がしなかった。

大風のため小樽に着くまで1週間も船の中にいて、あくる朝の5時の汽車で現在の北見市に行き、あくる日の午後1時半に下車し、夜道を7里半(約30km)歩かされ、夜の2時半に寝床に着いた。
その日の5時に叩き起こされ、あくる日から毎日3時に起こされ、ランプを付け朝食を食べ、仕事場に行くと夜が明ける。
9時と3時に弁当があり、毎日おかずが味噌ときまり、仕事が終わり帰る時には足もとの石ころも見えぬくらい暗くなっている。
仕事はトロッコを押したり、モッコを肩にかついだり。
あまりの重さに胸の骨がべリべリとなる音がして、骨が折れたかと思うくらいだった。

脚気になる者があり、使い物にならなくなると握り飯2、3こ与えて投げ出され、病気になっても医者が診ることもなく、回復の見込みがなければ線路の下に生き埋めにする。
狩勝の国境(狩勝トンネル)あたりには随分線路の下に死体が埋めてあるらしい、全く嘘のようだが、本当。

巡査が月に2回ほど見回りに来るが、賄賂で返す、警察も、そうでもしないと北海道が開拓されないということで、知らぬ振り。

逃げ出せば2、3人が馬に乗りピストルを持って後を追う。
山に逃げて迷ったり、熊に食べられたりと、山には人の骨が多い。
見つかった者は見せしめにリンチされ、火あぶりや蚊責めにした。

雪で仕事ができなくなり、他の地に行って他の仕事についた

この人は不思議にも、平常よりも体が一層丈夫になり、ご飯が美味しかったと。

補足 北海道と全国の土木工事の数

北海道で、明治から戦後まで行われたタコ労働の数はどれくらいだったのか。
気になり調べたが、分からなかった。
詳細や正確な数は、残されていないと思う。

なので、あくまで参考だが、北海道博物館の展示から、二つの数字を挙げておく。

一つは、大正9年(1920年)の北海道の土工夫の数。
その数、20,357人。
この中にタコが何人いたのかは分からないが、その内、死亡者が210人、死亡者を含む傷病死者が2,797人とあった。
※外傷484人(2.4%)、病気2,103人(10.3%)
 死亡210人(1.0%)、傷病死計2,797(13.7%)
 北海道博物館の展示
 北海道庁警察部発表の土工夫傷病死者数より

大正9年の国勢調査によると当時の人口は、5,963,053人。
※総務省統計局HP 勢調査のあゆみより

約600万人の内、2万人が北海道で土工夫として働き、その一部がタコだったとすると、この数を見る限り北海道でのタコの割合は大きなものとは言えない。

しかし、日本全体で見ると、タコの割合は少ないとは言えないのかもしれない。

もう一つは、大正11年の土工夫道府県別募集数。こちらも北海道博物館の展示を基に作ったもの。

上位20を記したもので、北海道が6,565人、青森が1,754人、秋田1,712人、東京1,088人、岩手957人、宮城883人、福島878人、とその総数は約2万人。

これもタコがどれほどの数含まれているのか、知る由もないが、北海道の3倍の数が全国の土工夫のあたることから、全国には、北海道の3倍のタコがいたのかもしれない。

正直、この数は信用できない。
大正9年から2年後の11年に、北海道に2万人いた土工夫が6千人に激減している理由が分からないし。
(樺太にでも行ったのだろうか)

しかし、北海道が全国の中でも最も多く土工夫が働いていたことが分かるし、全国の土工夫の総数が北海道の3倍あることも分かる。

猪苗代や鬼怒川の水力発電工事や足尾銅山で行われたタコ労働は、過激だったという。
上述の通り、樺太も然り。

全体に比べると少ない数になるかもしれないが、それでもタコ労働はそれなりの数があり、その犠牲になった人が少なくなかったと言えるのではないかと思う。

出典

田村喜子『北海道浪漫鉄道』新潮社(1998年)
小池喜孝『常紋トンネル -北辺に斃れたタコ労働者の碑-』(朝日文庫(1991年)
『星霜3 北海道史』北海道新聞社編集(2002年)
『星霜4 北海道史』北海道新聞社編集(2002年)
『星霜5 北海道史』北海道新聞社編集(2002年)

「北海道開拓の村 北海道の開拓と移民」HP
Wikipedia タコ部屋労働

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