修学旅行の定番、東大寺。
奈良の大仏がある、奈良で一番有名と言ってもいい寺院。
個人的にも法隆寺とともに奈良で一番お勧めしたい魅力のある寺院。
今回はそんな東大寺の魅力と見どころを数回にわたって紹介したい。
参拝の基本情報

拝観時間
大仏殿
4月〜10月 7:30~17:30
11月〜3月 8:00~17:00
法華堂(三月堂)・戒壇院戒壇堂
8:30~16:00
東大寺ミュージアム
4月〜10月 9:30~17:30
11月〜3月 9:00~17:00
拝観料
大仏殿・法華堂・戒壇堂・東大寺ミュージアムそれぞれで800円
セット券(大仏殿・東大寺ミュージアム):1,200円
所要時間
メインの南大門・大仏殿だけなら40分、東大寺ミュージアムを観るならプラス30分
広い境内を歩いて一通り観るなら、3時間はかかる。
アクセス
バス
JR奈良駅・近鉄奈良駅から市内循環バス「東大寺大仏殿・春日大社前」下車徒歩5分
近鉄奈良駅から、ぐるっとバス(大宮通ルート・奈良公園ルート)「大仏殿前駐車場」下車すぐ
徒歩
近鉄奈良駅から約15分、JR奈良駅から約30分
簡単な東大寺の見どころ

東大寺のメインの見どころは大仏殿と南大門。
大仏殿には巨大な大仏が鎮座し、南大門には巨大な仁王像が立っている。
この巨大さが東大寺の魅力で、それらを作った建築方法や大きくした理由などの時代背景を知ると参拝が楽しくなのが、東大寺のいいところ。
大仏が大きいのは、造った天皇が自分の権威を誇示すためとも、壮大な宇宙論説く華厳宗の教えを反映しているためとも、疫病や飢饉、大地震に苦しむ多く人たちに仏の功徳を分け与え救おうとしたため、ともいわれている。
南大門の仁王像が大きいのは、亡くなった多くの人たちの霊を供養するためとも、怨霊から東大寺を守るためともいわれている。
(建築技術は別の記事で。上記の詳細も別の記事で。)
大仏殿は奈良時代に造られ、平安時代末期に焼失し鎌倉時代に再建され、室町時代に再度焼失し江戸時代に再建。
南大門は平安時代末期に焼失し、鎌倉時代に再建。
東大寺には奈良時代に建てられた建築物と、鎌倉時代に再建された建物と、江戸時代に再建された建物がある。
それぞれの時代の建築様式を見比べるとその違いに気づき面白いし、創建や再建された経緯やその背景にある当時の人たちの信仰を思い浮かべると、いろいろな想いに浸れ参拝が充実する。
次回以降の記事で一つずつ紹介していくが、境内には他にも見どころのある建築物がある。
有名な正倉院、日本三名鐘で知られる鐘楼、お水取りやお松明で知られる修二会(しゅにえ)が行われる二月堂、東大寺最古の建物の法華堂、奈良時代に建てられた転害門、宇佐八幡宮から御祭神を勧請した手向山八幡宮がある。
半日くらいかけてゆっくりと広い境内を歩いて、東大寺を楽しんでほしい。
東大寺の創建の由緒と歴史

東大寺は南都六宗の一つ華厳宗の大本山。
華厳宗は宇宙論とも言える壮大な仏の世界を教義とする観念的な宗派。
東大寺の起源は、聖武天皇が若くして亡くなった皇太子を弔うために建立した寺院が始まりとされる。
その後、大和の国の国分寺となり、743年に大仏建立の詔が出され、4年後に大仏が造られるようになると、その頃から東大寺と呼ばれるようになる。
※728年:金鐘山寺(きんしょうさんじ)→741年:近光明寺(こんこうみょうじ)→749年頃:東大寺

大仏建立に貢献したのが行基。
行基は大仏建立の際に大勢の民衆を動員し、その造営に大きく貢献したので朝廷から仏教界の最高位である大僧正の位を日本で初めて贈られた。
行基は社会的弱者のための救済施設をつくり、道路をつくり、橋を架け、溜池を造り、灌漑を行い、多くの民衆のために活動した。
当時は禁止されていた民衆に仏の教えくことをし集団で活動したため、朝廷から社会を乱す危険な存在と警戒されたが、政府が行う土木事業に協力することでその誤解を解き、布教活動が認められ 、東大寺の大仏殿を造る際は行基が必要とされ その期待に大いに応えた。
※奈良時代の僧は公務員であり国家のために祈り、経典研究をするのが本文とされた
行基は生涯畿内から出ることはなかったとされているが、その名声は各地に広まり、日本の各地には行基が造ったとされる寺院や橋、温泉などの伝承が残っている。
行基はじめ多くの人の協力により、奈良時代に大仏殿が完成し、国を守るために祈りが捧げられる場所になったが、
※東大寺の創建は748頃とされ
752年に大仏が完成し758年に大仏殿が完成した
平安時代末期の治承4年(1180年)に、平重衡が東大寺と興福寺と戦った際に大仏殿が焼失してしまう。
平重衡の南都焼討と呼ばれ、皇族・貴族との繋がりの深い興福寺とは違い、東大寺は自力で再建しなければならなかったが、鎌倉時代初期に多くの人の協力を得て再建した。
しかし室町時代末期、戦国時代の永禄10年(1567年)に、松永久秀が三好三人衆と筒井順慶と戦った際に再度焼失してしまい、江戸時代に再建された。
※
東大寺大仏殿の戦い、多聞山城の戦いと呼ばれている
松永久秀・三好義継と三好三人衆・筒井順慶・池田勝正らが戦った
松永久秀が大仏殿を焼いたとされていたが、近年では異論もある
この時、鎌倉時代に再建された南大門は焼かれずに済み、それが現在残っている。
この時に焼失してから江戸時代に再建されるまでに142年もの歳月がかかり、再建には相当の苦労があった。
そうした再建を経た大仏殿と大仏が現在残っている。
YouTube動画
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