江戸時代中期になってから再建された中門

南大門をくぐるとその先には大仏殿を囲む回廊と中門がある。
他の奈良の古寺は南大門をくぐるとすぐに中門があるが、東大寺は中門までの距離が長い。
これは参道の両側に巨大な七重塔を建てたためといわれている。
※『奈良の寺々』より
鎌倉時代は大仏殿の再建が急がれたが、江戸時代は再建するまでに142年もの歳月がかかった。
1567年に焼失し1709年に再建され、1692年(元禄5年)の大仏開眼供養までの約120年間は、大仏が雨ざらしだった。
奈良時代、全国の国分寺を束ねた東大寺も江戸時代になると力が弱まり、再建に必要な木を集めるのに相当苦労した。
江戸時代はただでさえ全国に大きな柱となる木がなかった。
安土桃山時代から大きな城が次々に造られ、また豊臣秀吉が京の方広寺の大仏を造り、江戸時代になると木材は幕府が管理し、幕府が築く城や幕府と関係の深い寺社でないと大きな木は手に入れることができなくなった。
中門や廻廊が完成するのは、大仏殿よりも更に30年かかったという。
中門には兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)と持国天の像が安置されている。
こちらも二体の像が向かい合っている。

兜跋毘沙門天は天女の両手に支えられて立ち、ニ鬼を従えている特殊な毘沙門天。

兜跋(とばつ)とは西域のトルファンのことをいうらしい。
※西域:概ね中央アジアを指し時にはインドや西アジアまでを指すことも。
中央アジア5か国のウズベキスタン カザフスタン
キルギス タジキスタン トルクメニスタン
毘沙門天は四天王の一体で北を護る守護神で、多聞天とも呼ばれている。
持国天は四天王の一体で東を護る守護神で、こちらは通常の像と同様に鬼を踏みつけている。
説明板には南大門の裏に安置されている石の獅子が鎌倉時代の再建時は中門に祀られていたことが書かれている。
江戸時代の大仏殿の再建と建築の特徴

回廊の中に入ると巨大な大仏殿が目に入る。
大仏殿は高台に建てられているので、高い建物がなかった昔は奈良盆地の北や西から大仏殿の黄金に輝く鴟尾が七重塔とともに見えたという。
現在の大仏殿は1709年 江戸時代に再建された建物。
高さ約48m、奥行き約50m、間口が57mの真四角に近い建物だ。
再建の際に大きな木を調達することができず、横幅が一回り小さくなり奈良時代の創建時や鎌倉時代の再建時の3分の2の大きさになった。
それでも現在、世界最大級の木造建造物で知られている。
しかし大仏を覆う高さと奥行きは削れず、正方形に近い形となり、これにより構造に無理ができ瓦の重みで屋根が歪んだ。
江戸時代の後期に柱を入れて屋根を支え、明治時代の後期に鉄骨で内部を補強し、戦後に大修理を行い現在に至る。
1906年(明治39年)の大修理で大屋根を支える虹粱にイギリス製の鉄骨トラスが組み込まれた。
入口の上には観相窓(かんそうまど)があり一年に2回、大晦日から元旦にかけてと8月15日の万燈供養会の夜に開けられ、外から大仏さまのお顔を拝めるようになっている。
観相窓とその上の唐破風は江戸時代の再建時に採用された、近世の意匠。
大仏殿が再建された当時は、京都に豊臣秀吉が造った方広寺の大仏と大仏殿があり、東大寺は方広寺を手本として設計し、建築の意匠も方広寺のものを引き継いでいると言われている。
なので、今では失われてしまった方広寺の大仏殿に興味のある人にも、東大寺の大仏殿はお勧めとなる。
創建時から残る八角燈籠

大仏殿に入る前に是非見ておきたいのが、こちらの八角燈籠。
奈良時代の創建当初に造られたもので、二回の兵火を免れた貴重な遺産である。
燈籠の四面には楽器を持つ音声菩薩(おんじょうぼさつ)が彫られ、扉の四面には雲中を走る四頭の獅子が彫られている。
全てが天平時代から残るものではなく、後の時代に修復のため取り替えられたり、また一部盗難に遭っているようだが、天平時代の意匠や立体表現を知ることができる。
創建時から建っているいると思うと感慨深いものがある。
大仏殿の前庭が広いのも東大寺の特徴といわれる。
普通の奈良の寺院では中門すらないが、あっても中門からお堂までの距離が短い。
東大寺はなぜ大仏殿の前が広いのか分からないが、鑑真が来日した当初、大仏殿の前で授戒が行われ、その空間が活用された。
ついでに、中門と大仏殿を囲む回廊は現在は単廊だが、奈良時代は複廊だったらしい。
回廊も今よりももっと大きい感覚があったことだろうと思う。
廬舎那仏像が造られた理由・大きい理由

そして大仏殿の中に入ると、奈良の大仏で知られる約15mの盧舎那仏像が目に入る。
現在の大仏は江戸時代に再興されたものだが、奈良時代も大体同じ大きさだったという。
奈良時代にこれほどの大仏を造ったのが凄い。
当時最新の技術を使って、もうこれ以上大きなものは造れない、最大限の大仏を造った訳だが、のべ260万人が工事に従事したという。
奈良時代の人口が500万~600万人なのでそれが本当なら、日本人の半分が東大寺の造営に駆り出されたことになる。
東大寺の大仏造営はまさに国家の一大事業だった。
なぜこれほど大きな仏像が造られたかというと、華厳宗の教えでは盧舎那仏は広大な宇宙に広がる仏の世界を隅々まで照らす大きな存在で、それを表わしているからという。
また、大仏を造った当時は疫病や飢饉、大地震が起こり社会が非常に不安定だったので、多くの人を救うために大きな仏像を造ったと言われている。
全国の国分寺の上に立つ東大寺から仏の功徳と天皇の権威を日本の隅々に及ぼし、仏の力で国を良くする意図があり、当時の人たちの平和を欲求する強い気持ちが巨大な大仏を造った背景にはある。
大仏の造営は公共事業の側面もあった。
あまり言われていないが、同時に水銀汚染も酷かったという。
現在の大仏の頭部は江戸時代に造られたもので、体の大部分は鎌倉時代に補修されたものだが、台座や右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖や太腿の部分に一部建立当時の天平時代の部分も残っている。
廬舎那仏は蓮華に座り、蓮華には千枚の蓮弁、蓮の花びら、がありその一枚一枚に十億の世界があり、そのそれぞれに自らの化身である釈迦如来を遣わして光を当てるという、広大な宇宙論を説く華厳宗の教えが表されている。
実際は蓮弁は56枚だが、その大半が奈良時代に造られたものが残っているので、よく見るのがお勧め。
蓮弁に刻まれた華厳宗の世界観

蓮弁には華厳宗の説く広大な世界観が刻まれている。
3つの世界が鏨(たがね)で彫られ、上段に廬舎那仏の化身である釈迦如来と二十二の菩薩が彫られ、中段は横線によって無色界・色界・欲界(よっかい)という、あらゆる生き物が行き来する迷いの段階を表す三つの世界が彫られ、下段には百億世界を象徴する七つの須弥山(しゅみせん)が彫られている。
※須弥山:世界の中心にそびえる山で、妙高山と訳されることもある
聖武天皇は廬舎那仏を東大寺に、蓮弁の釈迦如来を国分寺に、小千世界の釈迦を各地の寺院になぞらえ、仏の功徳と自身の権威を日本の隅々に及ぼそうとしたという。
東大寺が全国の国分寺の上に位置する所以はここにある。
大仏殿の江戸時代の再建と建築上の見どころ
大仏殿は南大門で紹介した大仏様が取り入れられている。

柱には板が巻かれているが、これは太い大きな木を調達することができなかったため、芯の周りに檜の板を巻き、太い釘で打ち付け鉄のタガで締め付けて強化している。
江戸時代の大仏殿の再建は相当苦労が大きかった。
天井の奥に虹梁という、柱と柱の間に架ける横木が必要だったが、これはどうしても太く長い一本物でなくてばならならず、探しに探して、ようやく現在の宮崎県の日向国で見つけることができた。
※上層小屋根裏には二本の大きな松の梁が入っているがそれは九州の霧島山から運んだ
『宮大工と歩く奈良の古寺』
鴟尾のレプリカや虚空蔵菩薩像・如意輪観音像・四天王像・昔の東大寺の模型・鬼門除け
大仏殿に入って左には、鴟尾のレプリカがある。
名古屋城の金の鯱鉾よりも大きく重さが1.8t近くあるとのこと。
鴟尾は奈良時代から重要な建物の棟に載せられ、魔除けや大棟の反りをより強調する目的があったとされ、その形の元となっているものは鳥とも魚ともいわれ、雷や台風といった建物にとって悪いものが天から降って来ないように置かれたらしい。
大仏殿の中は周りをぐるっと回ることことができるので、ゆっくり観るのがお勧め。
廬舎那仏の向かって左隣には人々に知恵を授ける虚空蔵菩薩像が安置されている。
広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩という意味ががあり、奈良時代その信仰が盛んだったらしい。
その近くには南の方角を護る四天王の増長天像の頭部がある。
江戸時代の大仏殿の再建時に造られたものの、未完成に終わり東部のみが残されている。
その後ろには西の方角を護る四天王の広目天像がある。
江戸時代に造られたものだが、奈良時代の特徴である筆と巻物を持っている姿で造られている。
大仏の光背の裏も観ることができる。
こういう機会はあまりないのではないだろうか。
大仏の後ろには奈良時代の東大寺の模型があり、昔の大仏殿が今よりもどれくらい大きかったのか知れる。
七重塔が東西に立っており、それぞれの高さが100m近くあったというのですから驚く。
京都の東寺と興福寺の五重塔が50m台の高さだからその倍近くだ。
※西塔は934年に雷火で焼失、東塔は1180年に兵火で焼失
1227年に再建されるも1362年に雷火で再び焼失した


北の方角を護る四天王の多聞天像は右手に宝塔と呼ばれる仏舎利を持っている。
多聞天は毘沙門天とも呼ばれ、室町時代に七福神の一つとされ、江戸時代に特に勝負事に御利益があると信仰された。
多聞天像の近くには一本だけ四角い穴が開いた柱がある。
鬼門に当たる北東の方角にあり、邪気を逃すために穴を空けた鬼門除けとされている。
昔からこの穴をくぐる慣わしがあり、くぐり抜けると無病息災や願いが叶うと言われてきた。

御本尊の向かって右の仏像の右手前には、東の方角を護る四天王の持国天像がある。

こちらも江戸時代に未完成に終わり頭部のみが残されている。
こうしてみると分担制でパーツを造り、組み立てて造っていることがよく分かる。
盧舎那仏像の向かって右には、人々のあらゆる願いを叶える如意輪観音像が安置されている。
ちらも江戸時代に造られた像。
お堂の中には大仏殿の創建や再建を説明したパネルや、二月堂や法華堂など他の建物を紹介したパネルがある。
境内を歩く際の参考になるので、ゆっくりご覧になるのがお勧め。
参拝客の少ない平日の朝方に訪れてゆっくり参拝したい。
昼間はいかんせん修学旅行生がうるさい。
大仏殿の扉も立派で大きな木が使われている。
大仏殿を出た所にあるインパクトのある像は、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)の像、釈迦の弟子だった賓頭盧(びんずる)の像で、体の痛い所を撫でると良くなると信じられたなで仏の風習がみられる。
感銘を受ける江戸期の再建
非常に見どころが多い東大寺。
参拝する度によくぞ江戸時代に再建してくれたものだと感銘を覚える。
資金難や資材不足に悩まされたことは先述の通りだが、当時は京都の方広寺があり、日本一の大仏と巨大な大仏殿が既にあり、何も東大寺を再建しなくてもいいではないかという声が少なくなかったという。
再建の費用は門前や近隣の住民が負担するのでその気持ちも分からない訳ではない。
だが江戸時代に大変な苦労して大仏殿が再建されたおかげで、結果として今こうして日本一の大仏が現存し、奈良時代から続く歴史を現在に伝えている。
無理をしてでも大仏殿を再建したのは、長年の住民たちの信仰心や、脈々と受け継がれてきたさまざまな想いがあったからだと思える。
それが何なのかははっきりとは分からないが、少なくとも鎮護国家のためという目的と戦乱や災害、疫病、飢饉で亡くなった人たちへの鎮魂のためという目的があり、それが多くの人から求められたことは確かだと思う。
そうしたことを想いながらお堂と御本尊を目にすると、参拝できてよかったと思える。
そしてまたまた参拝しに来たいと、訪れる度に思わされる。
東大寺はそんな場所なのだ。
一説には、江戸時代になってもなお、未だ東大寺の信仰面での権威は高く、東大寺を再興することで民衆に天下泰平の世を知らしめる効果があったという。
ついでに、本文と関係がないが、かつての日本の首都にはどこも大仏があったことが個人的に興味深い。
奈良はここ東大寺の盧舎那仏、京都には豊臣秀吉が造った方広寺の大仏があった。
最近知ったが東福寺にも中世に巨大な大仏が造られている。明治時代に焼失したしまったが。
鎌倉には高徳院の大仏が現存し、東京には上野寛永寺にかつて上野大仏があった。
時の権力者が意図して大仏を造ってきたが、そのはじまりがここ東大寺で、そんなことを考えながら参拝するのもいいのかと思う。
(権力者の権威を示すと同時に、万民の安楽や救済を願い造られて、その町を怨霊などから浄化する意図があったとされている)
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