大講堂は平成15年(2003年)に再建された建物で、享禄(きょうろく)元年1528年の兵火によって焼失し、江戸時代の嘉永5年(1852年)に復興したが、元の大講堂に比べると小さく、平成15年に創建当初の規模で再建された。
大講堂は金堂よりも大きいのが特徴。
御本尊を祀る金堂よりも講堂が大きいのは、教学を重視し、講堂に大勢の僧侶が集まって経典研究に励んだ奈良仏教の寺院建築の特徴を表している。
現在は弥勒三尊像をお祀りしているが、享禄の兵火以前は繍仏(しゅうぶつ)という、刺繍で作られた阿弥陀三尊繍仏が本尊として祀られていた。
創建時に持統天皇が天武天皇の七回忌にあたり、極楽浄土の様子を刺繍で作らせたもので、高さ約9m、幅6.5mの大きさで、極楽浄土の様子が刺繍で表現されていたらしい。
飛鳥から奈良時代にかけて、刺繍によって仏像や極楽浄土を表す繍仏が盛んだった。
※薬師寺HP・奈良国立博物館HPより
平安時代になると廃れるが、鎌倉時代後期に突如として多くの作例が作られるようになった。
繍仏の制作は特に女性の信仰と結びついているのが特徴らしい。
※奈良国立博物館HP 刺繍阿弥陀三尊来迎図より
大講堂にも天井に白鳳時代の模様が描かれている。
講堂は仏足石を観ることができる珍しい場所でもある。
仏足石はお釈迦さまが入滅してから紀元100年までに、お釈迦様を偲ぶためにお釈迦の足跡を刻んだ石を造り信仰の対象としたもの。
後に仏像が作られるようになってから仏足石はなくなり、ストゥーパ (舎利塔)と仏像の間に位置しているのが仏足石となる。
薬師寺の仏足石は天平勝宝5年(753年)に作られたもので、古代の仏足跡は例が少なく現存最古。
※薬師寺のHPより
現在、寺院では仏像が祀られているが、お釈迦様が入滅してから紀元100年頃までは仏像が作られなかった。
諸説あるが、悟りを開き人智を超えた存在であるお釈迦様を人間が表現するのは不可能と考えらたからで、人びとは仏像のかわりに菩提樹や法輪など、
お釈迦様にまつわるモチーフを描いてお釈迦様を表現し、特によく描かれたのが仏足跡だった。
人びとはそこにお釈迦様が立っておられるとイメージしながら手を合わせたと、そんなことが薬師寺のHPに書かれていた。
お釈迦さまはイエスキリストと一緒で実在した人物だから、仏足石は人間の等身大の足の大きさだと思っていたが、顔よりも大きいものでいがいだった。
百円納めると仏足石について書かれたパンフレットをこちら持ち帰ることができ、助かる。
仏足石が一般の足跡のデザインと違い、逆さまになっているのは、拝む人がお釈迦さまと向き合っているからだ。
パンフレットはさらに詳しく、仏足石歌碑についても説明がある。
大講堂では仏足跡歌碑も見れ、仏足跡歌碑は、奈良時代に彫られた歌碑で、仏足跡への賛歌や仏教道歌が21首刻まれている。
仏足跡歌は「五七五七七七」の一首38文字の仏足跡歌体で詠まれていますが、この歌体は仏足跡歌碑のほかは『古事記』『万葉集』などに数点のこるだけで、極めて貴重とのこと。
21首はすべて万葉仮名で書かれ、奈良時代の人びとの信仰と文化の高さを今に伝えるものである。
金堂と同様、講堂にも天井に蓮の花が描かれている。
東塔の天井に残っていた模様を復元したもので、白鳳時代独特の模様が描かれている。
昔とそっくり同じ顔料を使い、値段がかなり高いのだそうだ。
※『宮大工と歩く奈良の古寺』、『木に学べ』より
天井に描かれている模様だけでなく仏像の上にある天蓋の装飾もとても煌びやかで、色彩がほどこされていて見ごたえがあったり
個人的に驚いたのがオレンジ色を結構使っていた点だ。
緑とオレンジのコントラストといいうのか、その二色をメインに他の色を使って模様を描いていて、自分が知っている奈良時代の色とはまた違った色を使っていたかなり興味深かった。
た奈良時代の色彩とか、平安時代の色の使い方との違いとか、そうしたことに興味のある人も、講堂は見ごたえのある場所だと思う。
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