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【小話】東大寺の功労者 行基と「知識」

歴史小話
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この記事は、2021年8月7日のものです。新しい記事を投稿次第、当時の日付に移動します。

近鉄奈良駅前の噴水に立つ、一人の僧の像。
行基。

東大寺の方を向いているのは、行基が、東大寺の大仏造立に大きな役割を果たした人物だからだろう。

律令に背く僧として弾圧されていた行基は、東大寺の造営で多大な貢献をし、名僧と言われるようになった。
今回は、そんな行基の活動について、書いてみたい。

民衆の中に入った僧

行基は668年、河内国大鳥郡、現在の大阪府堺市付近に生まれた。
15歳で出家し、仏教を学んだ後、寺院の外へ出て民衆に教えを説くようになった。

当時の僧は、朝廷の管理下に置かれていた。
僧侶として正式に活動するには朝廷の許可が必要で、寺院で経典を学び、国家の安泰を祈ることが主な役割とされていた。

行基は、そうした寺院中心の仏教から外れ、民衆の暮らしの中に入っていった。

貧しい人や身寄りのない人、病人などに手を差し伸べ、救いを求める人々に仏の教えを説いた。
そのため、行基のもとには多くの民衆が集まるようになった。

しかし、その中には朝廷の許可を得ずに出家した私度僧もいた。
無許可の出家者が増え、大勢の人が集団で托鉢や宗教活動を行うことは、民衆を戸籍によって把握し、租税や労役を課していた朝廷にとって見過ごせない問題だった。

養老元年(717年)、朝廷は行基を「小僧行基」と呼び、その活動を取り締まった。
現在から見ると民衆を救った立派な僧だが、当時の朝廷から見れば、行基は社会の秩序を揺るがしかねない危険な存在でもあったのだ。

橋や池を造った行基

行基の活動は、仏の教えを説くだけではなかった。

民衆を率いてを架け、用水路を造り、道路を整備した。
さらに、旅人や都へ税を運ぶ人々などに食事や宿を提供する「布施屋」も設けた。

当時、地方の人々は米や布などの税を自分たちで都まで運ばなければならなかった。
長い道のりを歩く途中で食料が尽き、病気になったり、行き倒れたりする者もいた。

布施屋は、そうした人々を助けるための施設だった。

『行基菩薩伝』には、行基が関わった施設として、僧院34、尼院15、橋6、布施屋9、池15のほか、用水路、堀川、道路、船着場などが記されている。

行基が行ったのは、単なる慈善活動ではない。
池や用水路は農業を支え、橋や道路は人や物の移動を助けた。
布施屋は、旅人や税を運ぶ人々の命を守った。

仏教の教えを、説法だけでなく、人々の暮らしを支える事業として実践したのだ。

行基を支えた人々

もちろん、これほど多くの施設を行基一人で造れるはずがない。
行基の活動を支えたのが、「知識」と呼ばれる人々だった。

ここでいう知識とは、現在使われている知識や学問という意味ではない。
同じ仏を信仰し、寺院や仏像、社会施設を造るために、金品や資材、労働力を出し合う人々のことだ。

裕福な者は金や物を差し出し、働ける者は工事に参加し、技術を持つ者はその能力を提供した。
行基は、人々の信仰心を一つにまとめ、それを社会事業を実現する力に変えた。

行基のもとには、貧しい民衆だけでなく、地方豪族や役人、技術者なども集まった。
橋や道路、池、用水路が整備されれば、農業や交通が改善され、地域全体がその恩恵を受ける。

行基の活動が人々の暮らしを良くするにつれて、その名声はさらに高まり、活動を支える人々も増えていった。

行基は慈悲深い僧であると同時に、身分や立場の異なる人々をまとめ、大規模な事業を実現できる指導者でもあったのだ。

朝廷からも認められる

当初、朝廷は行基を弾圧した。
しかし、行基の活動が広がり、多くの人々から支持されるようになると、朝廷もその存在を無視できなくなった。

当時の朝廷は、遷都や寺院造営などによって大きな負担を抱えていた。
橋や道路、用水路を整備することも国家の重要な仕事だったが、必要な資金や労働力を十分に集められるとは限らなかった。

行基は、朝廷が命令しても簡単には集められない人や物を、信仰によって集めることができた。
しかも、その力を使って橋や池を造り、地域の暮らしを支えていた。

弾圧するだけの危険な存在ではなく、国家にとっても役立つ人物だと見られるようになったのだ。

天平3年(731年)には、行基に従う男女のうち、一定の年齢に達し、正しく修行する者について出家が認められた。
かつて取り締まりを受けた行基の集団が、次第に朝廷から認められるようになったことを示している。

東大寺の大仏造立に協力する

天平15年(743年)、聖武天皇は盧舎那大仏の造立を発願した。
後に東大寺の大仏となる巨大な仏像だ。

大仏を造るには、大量の銅や金、木材、食料が必要だった。当然、工事に携わる多くの人々も集めなければならない。

聖武天皇は大仏造立の詔の中で、一本の草や一握りの土でも差し出せる者は協力してほしいと呼びかけた。
朝廷が目指したのは、権力によって人々を強制的に動員するだけの事業ではない。身分にかかわらず、多くの人々が自ら協力する事業だった。

そこで頼りにされたのが、行基だった。
行基には、長年の布教や社会事業によって築いた人々とのつながりがあった。

行基が呼びかければ、多くの人々が金品や資材を差し出し、労働にも加わった。
行基は弟子や信者とともに各地で協力を呼びかけ、大仏造立に必要な力を集めた。

かつて朝廷から「小僧」と呼ばれ、弾圧された僧が、今度は朝廷から頼られ、国家最大級の仏教事業を支えることになったのだ。

天平17年(745年)、行基は日本で初めて大僧正に任命された。
大僧正は、当時の仏教界における最高位だ。

これは大仏造立への貢献だけでなく、行基が長い年月をかけて築いた人々からの信頼と、その集団を動かす力が認められた結果でもあった。

行基はどんな人物だったのか

行基は、民衆に寄り添った慈悲深い僧として紹介されることが多い。
もちろん、それは間違いではない。

しかし、行基は単に貧しい人を助けただけの人物ではなかった。
民衆の苦しみに目を向け、信仰によって多くの人を結びつけ、その力を橋や池、道路、布施屋などに変えていった。

思想を説くだけでなく、社会に必要なものを実際に造った人物だった。
さらに、民衆だけでなく、地方豪族や役人、技術者など、立場の異なる人々をまとめる力も持っていた。

その力があったからこそ、朝廷も行基を頼り、東大寺の大仏造立への協力を求めたのだ。

行基は天平21年(749年)に亡くなった。
東大寺で大仏開眼会が行われたのは、その3年後の天平勝宝4年(752年)だった。そのため、行基自身は大仏の開眼を見届けていない。

それでも、大仏造立を支えた行基の功績は人々の記憶に残り、後世には「行基菩薩」と呼ばれるようになった。

行基が実際に活動した範囲は、ほぼ畿内に限られている。
しかし、日本各地には行基が寺院を開いた、橋を架けた、温泉を発見したという伝承が残されている。

すべてが史実というわけではない。
それでも、行基が人々を救う僧として、どれほど広く知られていたかが分かる。

近鉄奈良駅前に立つ行基像は、東大寺の方を向いている。
東大寺を訪れる前にその像を見ると、大仏は聖武天皇の力だけで造られたものではなく、行基の呼びかけに応じた多くの人々によって支えられたものだったことに気づかされる。

行基は、その人々を東大寺の大仏造立へと結びつけた、最大の功労者の一人だったのだ。

参考文献

速水侑[編]『行基』吉川弘文館、2004年
吉田靖雄『行基―文殊師利菩薩の反化なり』ミネルヴァ書房、2013年

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